和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「せいとん」と整理。

2019-06-06 | 本棚並べ
あらためて、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)を、
読み直そうと、ぱらりと開くと、
5章「整理と事務」のはじまりが気になる。

「わたしが小学生のころの教科書にあった話だとおもうが、
本居宣長は、自分の家の書棚から、あかりをつけずに
必要な本をとりだすことができたという。また、どこそこ
の棚の右から何番目、といわれていってみると、ちゃんと
その本があった、というような話もきいた。・・」(p79)
 
これが第5章のはじまりでした。
それで、思い出すのは
八木秀次監修「尋常小學修身書」(小学館文庫)。
そこをひらいていたら、「せいとん」という文があった。

「本居宣長は、わが国の昔の本を読んで、
日本が大そうりっぱな国であることを
人々に知らせた、名高いがくしゃであります。

宣長は、たくさんの本を持っていましたが、
一々本箱に入れて、よくせいとんしておきました。
それで、夜、あかりをつけなくても、思うように、
どの本でも取出すことが出来ました。

宣長は、いつもうちの人に向かって、
『どんな物でも、それをさがす時のことを思ったなら、
しまう時に気をつけなければなりません。
入れる時に、少しのめんどうはあっても、
いる時に、早く出せる方がよろしい。』
といって聞かせました。

宣長が名高いがくしゃになり、
りっぱなしごとをのこしたのには、
へいぜい物をよくせいとんしておいたことが、
どれだけやくにたったか知れません。」
(p86~87)

うん。梅棹忠夫さんは、この話が
記憶の片隅にあったのでしょうか。
章のはじめに、枕のように引用しておりました。

その本居宣長の「せいとん」から
はじめた梅棹忠夫氏は、つぎに
ご自分のことを書いております。

「わたしは子どものころから、
ものもちのいいほうで、いろいろな
ものを保存するくせがあった。・・・
友人たちからもらった手紙類や、
学校関係のパンフレット、紙きれまで、
後生大事にのこすようになってしまった。
ただし、いっさい整理ということをしらないから、
なんでもかでも、箱のなかに乱雑につめこんで
いただけである。わたしはいまでも、すくなくとも
高等学校時代からの、このような『遺産』の山を、
なすすべもなくかかえこんでいる。

学生時代はためこむだけでよかった。
いよいよ自分の仕事がはじまってみると、
これではどうしようもなかった。
・・・・・
わたしは、自分自身の文書を整理するために、
いろいろなことをやってみた。なんべんも失敗したが、
そのたびに、すこしずつかしこくなった。そして、
どうやら整理についての基本的原則みたいなものが、
すこしわかったような気がしている。」(p79~80)


うん。「知的生産の技術」を再読してみます。
あらてめて、読み直すと、どのようなことを
思い浮かべるのか、という楽しみ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鴨川堤から、京都北山の連山が。

2019-06-06 | 本棚並べ
雑誌「中央公論」1992年8月号。
忘れられない雑誌です。
梅棹忠夫が「ひとつの時代のおわり」と題して
今西錦司追悼の文を掲載していた。
その印象は、鮮やかでした。

私が、鮮やかといってもしょうがないか(笑)。
それでは、司馬遼太郎さんは、どう書いたか。

梅棹忠夫編著「日本の未来へ」(NHK出版)
副題は「司馬遼太郎との対話」。
そのなかに、梅棹さんがインタビューに答えて
こう語っておりました。

梅棹】 ・・・今西錦司先生が90歳で亡くなったとき、
その追悼文を『中央公論』に書いたら、司馬さんから
すぐ手紙が来て、『これぞまことの文学』という
ほめ言葉で激賞してもらった。そういうことがあった・・
(p214)

うん。梅棹忠夫の今西錦司追悼文は、
「梅棹忠夫著作集第16巻」に入っていると、
今月になってわかりました(笑)。
ほかに、「フォト・ドキュメント 今西錦司」(紀伊国屋書店)
にも、今西錦司追悼文は掲載されておりました。


これで、古雑誌が探し出せなくなっても大丈夫(笑)。
いつでも、本で読みかえせる。

さてっと、著作集16巻の、その追悼文には
梅棹氏ご自身による解説があります。
私ははじめて読みました。
それを、はじめから引用。

「今西錦司博士は4年1カ月にわたる入院生活ののち、
1992年6月15日、90歳で永眠された。遺体は即日・・
京都下鴨の自宅にかえった。・・・

翌16日午後7時から今西邸でお通夜がおこなわれ・・
17日、朝10時から密葬がおこなわれた。
柩は年下の友人たちにかつがれて、自宅のすぐそば
の鴨川堤にでた。そこは、今西氏がわかいころ川床の
石をひっくりかえしてカゲロウの幼虫をしらべ、
有名な『すみわけ理論』を着想された場所であった。
鴨川堤からは、登山家今西氏をはぐくんだ
京都北山の連山がみえる。
葬列は今西氏の愛唱歌であった三高の『紀念祭歌』を
うたいながら、しばらく鴨川堤を行進した。・・・

本葬は6月20日午前11時から、今西家の菩提寺である
千本十二坊の上品蓮台寺(じょうほんれんだいじ)で
とりおこなわれた。・・・・・・



6月16日に、わたしは『中央公論』から追悼文執筆の
依頼をうけた。締切は目前にせまっていて、まにあうか
どうかあやぶまれたが、わたしは執筆をひきうけた
ちょうど18日に、国立民族学博物館において館長と
報道関係者との月例の懇談会がひらかれた。その席上で、
わたしは今西博士追悼のスピーチをおこない、
今西氏の業績とひととなりをかたった。
これが原稿執筆のための準備作業となった。
19日には、前日のスピーチをもととして口述をはじめ、
原稿の前半をつくった。
20日は、葬儀のあと今西邸にたちより、そののち、
京都グランドホテルにおいて口述で原稿の後半を執筆した。
21日には、午前中に原稿はすべて完成し、葬儀のために
京都にきていた『中央公論』編集長の宮一穂氏に原稿を
わたすことができた。・・」
(p464~465)

そうなんだ。
1986年に、ほぼ失明された梅棹忠夫氏が
口述で原稿執筆した追悼文を、
時をおかずに、読めた幸せ(笑)。
著作集であらためて読める幸せ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする