和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

梅棹忠夫と、良寛さま。

2019-06-29 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」。
その第四章「きりぬきと規格化」は、
こうはじまっておりました。

「小学校のころ、新聞に『良寛さま』という
連載小説がのっていた。わたしたちは、
担任の先生から、毎日その一回分をよんできかせて
もらうのがたのしみだった。先生は、
その小説をきりぬいて、ながくつなぎあわせ、
まき紙のようにまいて保存しておられた。
良寛和尚の人がらとともに、新聞にはきりぬいて
保存するにたる部分があるものだという事実が、
ながくわたしの記憶にのこることとなった。
・・・・」(p65)

この引用文の後半の着眼点がいいですね。
ちなみに、「知的生産の技術」の
第一章「発見の手帳」では、
高等学校の学生の時に読んだ『神々の復活』
の中にあった記載で、ダ・ヴィンチの手帳があり、
『この本をなかだちにして、レオナルド・ダ・ヴィンチ
から「手帳」をもらったのである。』(p22)
という箇所もあったのでした。

さてっと、ここでは新聞の『良寛さま』について。
梅棹忠夫は、1920年生まれ。

相馬御風は、『良寛さま』を新聞連載したのが
昭和3年(1928)。
ちょうど、小学生の梅棹忠夫が担任の先生から
読んで聞かせてもらってたのが、どうやらこれらしい。

古本で、簡単に購入できたのは、
子どもむけに書かれた相馬御風著『良寛さま』。
こちらは平成19年の地域の復刻本とあります。

そのはじまりの一回目には、こんな箇所がある。

「・・良寛さまは、とうとう・・・あちこちの国々を
まわって歩いて・・いろいろと教えをうけて学問をつづけました。
・・野原の木のかげで寝たこともあります。
どろぼうとまちがえられて、さんざんなぐられた後に、
土の中に生き埋めにされかけたこともあります。
・・・それでも良寛さまは、少しもへこたれないで、
あちこちと・・何年もの間学問をつづけました。
そしてしまいになつかしい故郷の越後の国に帰ってきました。」

はい。『生き埋めにされかけたことも』で、思い浮かぶのは、
たとえば、梅棹忠夫著「モゴール族探検記」の、まえがきに
こうあります。

「・・日本国内の農村調査などでもしばしば経験することだが、
風俗・習慣・ものの考え方のちがう人たちの中へ入って行って、
うまく仕事をすすめるのはなかなかむつかしいものだ。
言語がちがい、宗教が異ると、ますますやっかいなことになる。
ずいぶんおかしなトンチンカンがおこるし、わるくすると
生命の危険をさえまねくおそれもある。そういう人たちと
どんな接触の仕方をすればよいか。それは理論や観念、
あるいは単なる善意で片づく問題ではない。
やはり具体的な経験の蓄積が必要なのだ。・・」


はい。梅棹忠夫と良寛さま。
というのもありですね。そうだとすれば、
小学校の先生が『良寛さま』を語る場面が、
海外探検の途次、浮んできたのじゃないか。

それを反芻しながら、『知的生産の技術』は、
構想されていたのだと、私に思えてくる(笑)。


コメント (2)
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