和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

上方の日常性の語感。

2019-06-02 | 本棚並べ
松田道雄の本16「若き人々へ」(筑摩書房)には、
「小学校の会パンフ」(49・10)という3頁ほどの
文など収録されていて、たのしいのですが、
そこから引用。

「私は茨城県で生まれて、半年後に京都につれてこられた。
両親は茨城で生まれ、そだち、ともに青年期のあるみじかい
期間を東京でおくった。彼らが私をそだてる家庭のなかで
つかった日本語は東京の中心部のことばであった。

私が友人と京都の町であそぶとき、学校の休み時間で
はなすときもちいたのは京言葉であった。また
結婚してからの妻との会話も京言葉であった。
したがって子どもたちとの会話も京言葉だった。

また、中年に、しかつめらしい文章をかく
ようになって私がつかった言葉は標準語だったが、
激論する研究会での用語は京言葉だった。

両親がなくなって私は東京言葉を家でつかわなくなった。
そして、『論文』をかくことが少なくなってくるとともに、
京言葉をつかうことがおおくなった。

東京言葉から遠ざかることは、私にとって何ほどか
支配と形式とから解きはなされることであった。
そのときがきて、はじめて
上方の言葉にたいする語感がわかったといえる。

しいていえば上方の言葉は、
日常性をもっとも正確につたえる媒体である。

かすかな気分の動き、わずかな感情のかげりは
上方の言葉によってしかあらわせない。

支配とか儀式とかの公的な生活が遠慮もなく
おしつぶしてしまう人間の心のリズムが
博動しているのは、私的な日常性においてである。
・・・」(p208~209)


「かすかな気分の動き、わずかな感情のかげりは
 上方の言葉によってしかあらわせない。」
とありました。

うん。『かすかな気分の動き』なんて、
どうなんでしょうね。
文章にされたら、私なら読み過ごしてしまう。

そういえば、司馬遼太郎・ドナルドキーンの
『日本人と日本文化』(中公新書)の
「はしがき」を司馬遼太郎さんが書いており、
そこに『かすかな』『わずかな』という語感に
ふさわしいような箇所がありました。

そこを引用。

「私は日本の作家の名簿の中に入っているが、
それらの名簿は他人が作ったもので、
私自身は自分を作家だとおもったことがなく、
むしろそう思わないように努力している。

また自分が書いているものが小説であるか
何であるかということを自分で規定したことがなく、
もしそう規定すれば一字も自分の文章が書けない
ということも自分でよく知っている。

・・・・日本文学史という重層の下であえぎながら
小説、もしくはそれらしいものなど書く勇気など
とても持ちあわせていないから、その種の知識が
頭に入りこむことをできるだけふせいできた。」


この『わずかな』『かすかな』姿勢のちがいを、
まるで読み分けられなかった、私がおりました。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京の晴れ舞台。

2019-06-02 | 本棚並べ
そういえば、ドナルド・キーンだと思って、
「ドナルド・キーン自伝」(中公文庫)を
本棚からとりだしてくる。


「『千鳥』の太郎冠者 生涯に一度の晴れ舞台」
という章のはじまりは、

「京都に住んだお陰で、
たいした苦労もなく日本の歴史について多くを
知ることになった。以前は、たとえば銀閣寺を
建てたのが義満であったか義政であったか、
なかなか思い出せなかった。しかし、実際に
銀閣寺を訪ねて義政の彫像を見てからは、
二度と二人の将軍を取り違えることはなかった。」
(p166)

以下、京都に関係する箇所を引用。

「当時、最大の楽しみは狂言の稽古だった。
その時私の頭にひらめいたのは、伝統芸術を
学べば日本の文化がよりよくわかるのではないか
ということだった。いろいろな可能性について
考えた中から、狂言を選ぶことにした。

私は能に深い感銘を受けていたが、
一方で狂言の言葉にも惹かれていて、
『候ふ』よりも『御座る』と言った方が
おもしろいのではないかと思った。
・・まわりまわって大蔵流の茂山千作(先代)
の耳に届いた。先代は、私が狂言を学ぶ初めての
外国人ということもあって、子息の茂山千之丞を
先生に選んでくれた。

毎週の狂言の稽古は、実に楽しかった。
稽古は私の家で行なわれた。そこは隣家と
随分離れていたので、狂言のセリフを朗々と
述べる大きな声のために誰かが迷惑する
ということもなかった。狂言を覚えることは、
まったく新しい経験だった。・・・

狂言では想像力は必要ないのだった。
私に課されているのは、千之丞の声や仕草を
出来るだけそのまま真似することだった。
この世界では一人前の狂言師になって初めて、
『型を破る』ことが許された。

自分の先生をひたすら真似することは、
私をがんじがらめにするどころか、
むしろ私に喜びを与えてくれた。
まるで私は、前任者たちが代々受け継いできた
狂言の長い歴史の一番お尻のところに
自分が連なっているような気がした。

『狂言師』としての私の短い経歴の頂点は、
1956年9月13日に喜多能楽堂で『千鳥』の
太郎冠者を演じた時だった。
 ・・・・・・
それは、私の生涯に一度の晴れ舞台だった。」
(~p174)

なにか、夢のような京都です。
そうだ、夢といえば、『いろはかるた』。
ということで、本棚から出してきたのは
池田弥三郎・檜谷昭彦「いろはかるた物語」(角川書店)。
ひらいたのは『京の夢 大阪の夢』。
そのはじまりは

「『いろはかるた』の最後の一枚である。
『いろは』は四十七文字から成る。・・
その47文字に『京』の一字を加えて48文字とした。
『ん』を加える例もあるが、うたやかるたに『ん』
では意味をなさない。
双六の場合を考えればもう少しよくわかる。
上がりはやはり『京』が良い。
あそこは上京する所で、
京へ着いて旅は終わることになっている。
・・・・
『いろは』は『伊』にはじまって『京』に終わる。
節用集の題名に『伊京集』というのがあるのもそれである。
・・江戸の火消しを詠んだ笠付の雑排にも、
『ゑひもせず・京では聞かぬいろは組』というのがある。」


池田弥三郎氏の文は、いろいろと深いのでカットして
あとは、ここを引用。

「上方は『京に田舎あり』といった。
尾張の『かるた』にこの項はない。
京のような文化の中心地、大都会にも
やはりひなびた田舎がある、
文化の恩恵に浴さぬ僻地があるというのである。」
(~p248)


ちなみに、時田昌瑞著「岩波ことわざ辞典」で
「京に田舎あり」をひくと、
「収められたことわざに出入りのある
上方系のいろはカルタにあって、
これは決って採用されている。」とあります。
そして、最後に
謡曲『粉川寺(こかわでら)』からの引用がありました。
せっかくなので、その謡曲の引用箇所を孫引き

「げにや情(なさけ)は有明の、
月の都にすみなれて、
人こそおほけれど
かかるやさしき事はなし。
京に田舎あり、
田舎にも又都人の
心ざまは有べしや」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする