梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)の
第6章「読書」。そのはじめのページに
「・・すぐ手にはいる本で、もっとも正統派的なのは、
小泉信三『読書論』(岩波新書)であろう。
記述のスタイルは、ややクラシックだけれど、
さすがに耳をかたむけるべき内容にみちている。」
はい。私は読んでおりません(笑)。
そのすぐ次に、こうありました。
「また、大内兵衛・茅誠司他『私の読書法』(岩波新書)
が役にたつ。・・・」(p97)
あれれ、この『私の読書法』をひらいてみると、
そこに、梅棹忠夫も「行動中心の読書」と題して、
10頁ほどの文を書いているじゃありませんか。
せっかくなので、そこから、この箇所を引用。
「・・本は、いやになればさっさと閉じてしまえるから、
まだよい。閉口なのは、講演だ。途中で逃げ出すわけにも
ゆかない。まず、たいていの話は、聞いているうちに
イライラしてきて、居たたまれなくなる。
それは、講演というものは、一方交通だからだとおもう。
向うのお話を拝聴するばかりで、こちらは何も口出しできない。
対話にならないのだ。学生時代は、講義がいやで、
卒業したときときはホッとした。
いまは反対に、講義をする側になってしまったが、
これも、じつにいやな仕事だ。やっぱり一方交通で、
こちらが一方的にしゃべるだけで、
向うからは何も返ってこない。
いまの職は悪くはないと思っているが、
講義だけが苦痛の種である。」(p57~58)
はい(笑)。そうえば、
小山修三が聞き手の「梅棹忠夫語る」。そこに
丸山真男氏が語られている箇所があり、印象に残ります。
小山】梅棹さんには常識がなかった(笑)。
それは、そうですよね。丸山眞男さんが
京大に講演に来られたとき、
途中で席立って出てしまって・・・
梅棹】ああ。『こんなあほらしいもん、
ただのマルクスの亜流やないか』って。
そのときも桑原さん、
『ああいうことやっちゃいかん。
あれは、東京で偉いんやぞ』って(笑)。
実はあとでわたしは丸山眞男と親しくなった。
ものすごく陽気でいい人物だった。
おもしろい人やったね。でも、話はつまらん(笑)。
あんなものは、理論的にただマルクスを
日本に適用しただけのことで、何の独創もない。
(p183~184)
梅棹ご自身が講義を苦手としたようです。
「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」(ミネルヴァ書房)に
こんな引用がありました。
「吉良(竜夫)と梅棹はともに
1949年から大阪市立大学に勤務した。
よく知られているように、梅棹は
大阪市立大学での授業を苦手としていた。
鶴見俊輔は
『自分でおもしろいと思っていることに学生は
乗ってくれないからだろう。明日は講義だと思うと、
胃が硬くなる。胃潰瘍になるかもしれないと言っていた』
と回想している。」(p138)
ちなみに、このすぐあとも引用しておかなきゃね。
「大阪市立大学時代、梅棹は1957年から58年にかけて
東南アジア学術調査隊を成功させ、1960年、今の
ミャンマーにあるカカボ・ラジ山の登山計画に失敗し、
翌61年、第二次東南アジア学術調査隊に出かけた。
海外出張でしばしば不在となる梅棹に代わって
(吉良が)授業をしたり、会議に出て弁明したり
していた、という。」
う~ん。こうして読んでゆくと、
だんだんと『知的生産』に味わいがでて、
匂いまで嗅げる気がしてきます(笑)。
第6章「読書」。そのはじめのページに
「・・すぐ手にはいる本で、もっとも正統派的なのは、
小泉信三『読書論』(岩波新書)であろう。
記述のスタイルは、ややクラシックだけれど、
さすがに耳をかたむけるべき内容にみちている。」
はい。私は読んでおりません(笑)。
そのすぐ次に、こうありました。
「また、大内兵衛・茅誠司他『私の読書法』(岩波新書)
が役にたつ。・・・」(p97)
あれれ、この『私の読書法』をひらいてみると、
そこに、梅棹忠夫も「行動中心の読書」と題して、
10頁ほどの文を書いているじゃありませんか。
せっかくなので、そこから、この箇所を引用。
「・・本は、いやになればさっさと閉じてしまえるから、
まだよい。閉口なのは、講演だ。途中で逃げ出すわけにも
ゆかない。まず、たいていの話は、聞いているうちに
イライラしてきて、居たたまれなくなる。
それは、講演というものは、一方交通だからだとおもう。
向うのお話を拝聴するばかりで、こちらは何も口出しできない。
対話にならないのだ。学生時代は、講義がいやで、
卒業したときときはホッとした。
いまは反対に、講義をする側になってしまったが、
これも、じつにいやな仕事だ。やっぱり一方交通で、
こちらが一方的にしゃべるだけで、
向うからは何も返ってこない。
いまの職は悪くはないと思っているが、
講義だけが苦痛の種である。」(p57~58)
はい(笑)。そうえば、
小山修三が聞き手の「梅棹忠夫語る」。そこに
丸山真男氏が語られている箇所があり、印象に残ります。
小山】梅棹さんには常識がなかった(笑)。
それは、そうですよね。丸山眞男さんが
京大に講演に来られたとき、
途中で席立って出てしまって・・・
梅棹】ああ。『こんなあほらしいもん、
ただのマルクスの亜流やないか』って。
そのときも桑原さん、
『ああいうことやっちゃいかん。
あれは、東京で偉いんやぞ』って(笑)。
実はあとでわたしは丸山眞男と親しくなった。
ものすごく陽気でいい人物だった。
おもしろい人やったね。でも、話はつまらん(笑)。
あんなものは、理論的にただマルクスを
日本に適用しただけのことで、何の独創もない。
(p183~184)
梅棹ご自身が講義を苦手としたようです。
「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」(ミネルヴァ書房)に
こんな引用がありました。
「吉良(竜夫)と梅棹はともに
1949年から大阪市立大学に勤務した。
よく知られているように、梅棹は
大阪市立大学での授業を苦手としていた。
鶴見俊輔は
『自分でおもしろいと思っていることに学生は
乗ってくれないからだろう。明日は講義だと思うと、
胃が硬くなる。胃潰瘍になるかもしれないと言っていた』
と回想している。」(p138)
ちなみに、このすぐあとも引用しておかなきゃね。
「大阪市立大学時代、梅棹は1957年から58年にかけて
東南アジア学術調査隊を成功させ、1960年、今の
ミャンマーにあるカカボ・ラジ山の登山計画に失敗し、
翌61年、第二次東南アジア学術調査隊に出かけた。
海外出張でしばしば不在となる梅棹に代わって
(吉良が)授業をしたり、会議に出て弁明したり
していた、という。」
う~ん。こうして読んでゆくと、
だんだんと『知的生産』に味わいがでて、
匂いまで嗅げる気がしてきます(笑)。