梅棹忠夫著「山をたのしむ」(山と渓谷社)。
そのあとがきには
「本書は、『著作集』の刊行以後、
ここ15年ほどのあいだに発表したもの
がほとんどである・・・」(p359)
とあります。
この本から引用。
「京都は三方を山にかこまれた盆地である。
東に比叡山(848㍍)がたかくそびえ、
大文字山から東山三十六峰がつづく。
西には愛宕山(924㍍)が
くろくおおきい壁をつくり、
それに西山連山がつらなる。
そして比叡山と愛宕山のあいだ、
つまり京都の北側いっぱいにひろがっているのが
北山である。
わたしは幼年のころから、
毎日これらの山やまの姿を見てそだった。
1932年、わたしは京都府立京都第一中学校
(京都一中)に入学した。現在の洛北高校
である。その三階だて校舎の屋上にたって
北をながめると、北山の連山のかさなりが
手に取るようにわかる。わたしはそれらの
峰みねを五万分の一地形図上に同定しながら、
あかずながめていたものである。・・・」
(p21~22)
ここからが本題なのに(笑)。
ここまでにして、
もう一箇所引用しておきたいところへ。
この本の最後には、小山修三氏との対談。
対談解説にこうあります。
「ときどき民博へ来てはしらべものをし、
わたしのところにも顔をみせておしゃべりをしてゆく」
「本書を出版するにあたり、・・・
山と探検をテーマにして、
小山氏と習慣のようになった対話を再開した。」
(p310)
はい、この対話のなかに、こんな箇所
梅棹】 ・・わたしも、子どもの時から、
その洗礼を受けています。
うちの親父が修験道の先達(せんだち)でした。
先達というのは山ゆきのリーダーで、
二、三派があるけれど、親父は聖護院派でした。
うちの玄関を入ったところの上に、
先達の菅笠と錫杖が飾ってあった。
親父は大峰山へせっせと行っていました。
(p317)
う~ん。これだけだと、単なる
山好きのエピソードで終ってしまう。
でもいいか(笑)。
そのあとがきには
「本書は、『著作集』の刊行以後、
ここ15年ほどのあいだに発表したもの
がほとんどである・・・」(p359)
とあります。
この本から引用。
「京都は三方を山にかこまれた盆地である。
東に比叡山(848㍍)がたかくそびえ、
大文字山から東山三十六峰がつづく。
西には愛宕山(924㍍)が
くろくおおきい壁をつくり、
それに西山連山がつらなる。
そして比叡山と愛宕山のあいだ、
つまり京都の北側いっぱいにひろがっているのが
北山である。
わたしは幼年のころから、
毎日これらの山やまの姿を見てそだった。
1932年、わたしは京都府立京都第一中学校
(京都一中)に入学した。現在の洛北高校
である。その三階だて校舎の屋上にたって
北をながめると、北山の連山のかさなりが
手に取るようにわかる。わたしはそれらの
峰みねを五万分の一地形図上に同定しながら、
あかずながめていたものである。・・・」
(p21~22)
ここからが本題なのに(笑)。
ここまでにして、
もう一箇所引用しておきたいところへ。
この本の最後には、小山修三氏との対談。
対談解説にこうあります。
「ときどき民博へ来てはしらべものをし、
わたしのところにも顔をみせておしゃべりをしてゆく」
「本書を出版するにあたり、・・・
山と探検をテーマにして、
小山氏と習慣のようになった対話を再開した。」
(p310)
はい、この対話のなかに、こんな箇所
梅棹】 ・・わたしも、子どもの時から、
その洗礼を受けています。
うちの親父が修験道の先達(せんだち)でした。
先達というのは山ゆきのリーダーで、
二、三派があるけれど、親父は聖護院派でした。
うちの玄関を入ったところの上に、
先達の菅笠と錫杖が飾ってあった。
親父は大峰山へせっせと行っていました。
(p317)
う~ん。これだけだと、単なる
山好きのエピソードで終ってしまう。
でもいいか(笑)。