本棚から、司馬遼太郎の追悼文集
「司馬遼太郎の世界」(文藝春秋編)をとりだす。
司馬遼太郎の小説は数篇しか読んでいなくて、
エッセイの方のファンの私です。
それはそうと、「司馬遼太郎の世界」。
弔辞を、田辺聖子さんがしている。
田辺さんのは他にも追悼文として、
「浅葱裏 ある日の司馬サン」も掲載されている。
「浅葱裏」のはじまりは田辺さんの全集の月報を
司馬サンが書いていることから始まっております。
そこにこんな箇所、
「この全集(田辺聖子全集のこと)の月報や解説は
『女の華やぎ―――田辺聖子の世界』としてやはり
文芸春秋から刊行されている。」とある。
田辺聖子の小説はきれいに読んでいない私。
でも、この『女の華やぎ』は本棚にありました。
この箇所が、気になって、古本で買い、それっきり
読まずに本棚で眠っていたに違いない。
今回、あらためて『女の華やぎ』をひらく。
そこに、虫明亜呂無さんが書いていました。
虫明さんの文のはじまりはこうです。
「田辺聖子さんは、この全集の第一巻の月報の中で、
『花狩り』『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』
『私の大阪八景』の三作は、現在では
『とても書けないように思われる』と述べている。―――
【『感傷旅行』のあと私は殻の中に入って苦しんだことがあった。
あのままだと、私はもう、何も書けなかったかもしれない】--
という記述が後につづく。
僕はなんとなく、そうだろうな、と、思った。」
こう、書き出されておりました。
そういえば、
「浅葱裏 ある日の司馬サン」には
こんな場面があったのでした。
「司馬サンとは、『花狩』(私の最初の本)の
出版記念会に出席して頂いたとき以来のおつきあいだが、
それは昭和33年である。
その後、芥川賞・・・そのころ、雑誌の何かの企画で、
司馬サンのおうちを訪問する、ということになった。
・・・べつにインタビューでも対談でもない、
二人でしゃべっているところをカメラにおさめてもらう。
というだけの趣向だから、私は匆々にプライベートな
愚痴をこぼした。
『いやー、賞もろて、ほんまは困ってますねん。
書けるやろか、思(おも)て心配で心配で・・・』
といったら、司馬サンは破顔され。
『小説なんてもんはなあ、
注文されたら手習いや思て書いたらええねん』
と朗々としてあったかいお顔と声であった。
司馬サンは昔から講演や放送という公的な営為のときは、
はっきりした共通語を採用された。多分
大阪弁に対する偏見や先入観で、意図・内容を
誤解されるのをおもんぱかられたのであろう。
しかし、氏は大阪人だから同じ大阪人同士でしゃべるとき、
あるいは他国人あいてのときでも心ゆるしたプライベート
な場では、柔媚で滑脱で緩急自在な大阪弁を用いられた。
『出版社(むこう)が練習さしてくれはる、
思(おも)たらええねん。そのうち、
だんだん巧(うも)うなるやろ』
『いつまでもヘタやったらどうしょう・・・』
『あンたは物書くのん、ほんまに好きな子ォや、
いうて足立サンいうてはったデ。
好きで書いとったら読者がついてくるわ』 」
(p30~31)
あんまり、いい例ではないかもしれないのですが、
思い浮かんだのは、
桑原武夫と司馬遼太郎の対談
「人口日本語の功罪について」
司馬】・・・話し言葉は自分の感情のニュアンスを
表わすべきものなのに、標準語では論理性だけが厳しい。
ですから、生きるとか死ぬとかの問題に直面すると
死ぬほうを選ばざるを得ない。生きるということは、
非常に猥雑な現実との妥協ですし、そして猥雑な現実
のほうが、人生にとって大事だし厳然たるリアリティを
ふくんでいて、大切だろうと思うのですが、しかし
純理論的に生きるか死ぬかをつきつめた場合、
妙なことに死ぬほうが正しいということになる。
『そんなアホなこと』とはおもわない。
生か死かを土語、例えば東北弁で考えていれば、
論理的にはアイマイですが、感情的には
『女房子がいるべしや』とかなんかで済んでしまう。
なにが済むのかわからないけど(笑)。
桑原】なるほど。
このあとに、司馬さんの桑原武夫論みたいな場面が
ありますので、最後にその個所を引用。
司馬】・・・わたしが多年桑原先生を観察していて
の結論なのです(笑)。
大変に即物的で恐れいりますが、先生は
問題を論じていかれるのには標準語をお使いになる。
が、問題が非常に微妙なところに来たり、
ご自分の論理が次の結論にまで到達しない場合、
急に開きなおって、それでやなあ、そうなりまっせ、
と上方弁を使われる(笑)。
あれは何やろかと・・・・。
「司馬遼太郎の世界」(文藝春秋編)をとりだす。
司馬遼太郎の小説は数篇しか読んでいなくて、
エッセイの方のファンの私です。
それはそうと、「司馬遼太郎の世界」。
弔辞を、田辺聖子さんがしている。
田辺さんのは他にも追悼文として、
「浅葱裏 ある日の司馬サン」も掲載されている。
「浅葱裏」のはじまりは田辺さんの全集の月報を
司馬サンが書いていることから始まっております。
そこにこんな箇所、
「この全集(田辺聖子全集のこと)の月報や解説は
『女の華やぎ―――田辺聖子の世界』としてやはり
文芸春秋から刊行されている。」とある。
田辺聖子の小説はきれいに読んでいない私。
でも、この『女の華やぎ』は本棚にありました。
この箇所が、気になって、古本で買い、それっきり
読まずに本棚で眠っていたに違いない。
今回、あらためて『女の華やぎ』をひらく。
そこに、虫明亜呂無さんが書いていました。
虫明さんの文のはじまりはこうです。
「田辺聖子さんは、この全集の第一巻の月報の中で、
『花狩り』『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』
『私の大阪八景』の三作は、現在では
『とても書けないように思われる』と述べている。―――
【『感傷旅行』のあと私は殻の中に入って苦しんだことがあった。
あのままだと、私はもう、何も書けなかったかもしれない】--
という記述が後につづく。
僕はなんとなく、そうだろうな、と、思った。」
こう、書き出されておりました。
そういえば、
「浅葱裏 ある日の司馬サン」には
こんな場面があったのでした。
「司馬サンとは、『花狩』(私の最初の本)の
出版記念会に出席して頂いたとき以来のおつきあいだが、
それは昭和33年である。
その後、芥川賞・・・そのころ、雑誌の何かの企画で、
司馬サンのおうちを訪問する、ということになった。
・・・べつにインタビューでも対談でもない、
二人でしゃべっているところをカメラにおさめてもらう。
というだけの趣向だから、私は匆々にプライベートな
愚痴をこぼした。
『いやー、賞もろて、ほんまは困ってますねん。
書けるやろか、思(おも)て心配で心配で・・・』
といったら、司馬サンは破顔され。
『小説なんてもんはなあ、
注文されたら手習いや思て書いたらええねん』
と朗々としてあったかいお顔と声であった。
司馬サンは昔から講演や放送という公的な営為のときは、
はっきりした共通語を採用された。多分
大阪弁に対する偏見や先入観で、意図・内容を
誤解されるのをおもんぱかられたのであろう。
しかし、氏は大阪人だから同じ大阪人同士でしゃべるとき、
あるいは他国人あいてのときでも心ゆるしたプライベート
な場では、柔媚で滑脱で緩急自在な大阪弁を用いられた。
『出版社(むこう)が練習さしてくれはる、
思(おも)たらええねん。そのうち、
だんだん巧(うも)うなるやろ』
『いつまでもヘタやったらどうしょう・・・』
『あンたは物書くのん、ほんまに好きな子ォや、
いうて足立サンいうてはったデ。
好きで書いとったら読者がついてくるわ』 」
(p30~31)
あんまり、いい例ではないかもしれないのですが、
思い浮かんだのは、
桑原武夫と司馬遼太郎の対談
「人口日本語の功罪について」
司馬】・・・話し言葉は自分の感情のニュアンスを
表わすべきものなのに、標準語では論理性だけが厳しい。
ですから、生きるとか死ぬとかの問題に直面すると
死ぬほうを選ばざるを得ない。生きるということは、
非常に猥雑な現実との妥協ですし、そして猥雑な現実
のほうが、人生にとって大事だし厳然たるリアリティを
ふくんでいて、大切だろうと思うのですが、しかし
純理論的に生きるか死ぬかをつきつめた場合、
妙なことに死ぬほうが正しいということになる。
『そんなアホなこと』とはおもわない。
生か死かを土語、例えば東北弁で考えていれば、
論理的にはアイマイですが、感情的には
『女房子がいるべしや』とかなんかで済んでしまう。
なにが済むのかわからないけど(笑)。
桑原】なるほど。
このあとに、司馬さんの桑原武夫論みたいな場面が
ありますので、最後にその個所を引用。
司馬】・・・わたしが多年桑原先生を観察していて
の結論なのです(笑)。
大変に即物的で恐れいりますが、先生は
問題を論じていかれるのには標準語をお使いになる。
が、問題が非常に微妙なところに来たり、
ご自分の論理が次の結論にまで到達しない場合、
急に開きなおって、それでやなあ、そうなりまっせ、
と上方弁を使われる(笑)。
あれは何やろかと・・・・。