和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『さん』づけもいかん。

2019-06-14 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「山をたのしむ」(山と渓谷社)。
登山部の京都と関東とを比べた対話の箇所。


小山】 ・・人間関係がずいぶん絡んでくるでしょう?
軍隊式登山部にはものすごく批判的ですね。

梅棹】それはそうや。われわれは軍隊式とはまったくちがう。
その点で関東のはいかん。

小山】こんどは関東か(笑)。

梅棹】関東のそういう学生団体の
上級生と下級生の関係は、京都とは全然違う。
第一、わたしら三高やったけど、三高山岳部においては、
新入生からいきなり、先輩にいっさい敬称を使ってはいけない。
敬語を使ってはいけない、『さん』づけもいかんと。
全部呼び捨てです。
北アルプスやら行くと、関東の山岳部の連中がやってくる。
下級生が一番重い荷物を背負って歩いている。・・・
この気風は少なくとも京都には全然ない。

梅棹】わたしがわからんのは、山へ行って、
どうしてしごきが成り立つのか。登山は、一番、
しごきから遠い世界やと思うんやけれど。

藤木】わたしも関学の山岳部の新人のころは、
ピッケルで殴られたり、ものすごくしごかれましたよ。

梅棹】へえ。

藤木】そんなもんや、と思うから、
つぎに後輩が入ってきたら、同じことをやるわけ(笑)。
 ・・・・今はないですけれど。

小山】わたしが驚いたのは、
民博に入った時、梅棹さんが館長で、
議論の時はみんな平等だ、
助手でも教授でも同じだと言ったことです。
そしてこの人がまた議論に強い。
結果的にシゴキだった(笑)。
本当に対等に議論するんです。
ふつうは、お前ら駆け出しにわかるか、
と押さえてくるんですが、
このかたは一切そういうことがない。
それが山の精神ですか(笑)。
 ・・・・

梅棹】山の精神や。
わたしらも学会で何人もそういうふうな学者と接した。
 ・・・・くやしかったら議論せい、と。
議論して負けたら、先輩といえども負けは負けや、あかん。


小山】あれは、日本としてふしぎな世界でしたね。・・
(p196~198)
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京都の修験道の先達。

2019-06-14 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「山をたのしむ」(山と渓谷社)。
うん。ここも引用しておきます。


江本嘉伸氏が聞き手です。
中学時代の話になります。

梅棹】・・・三年のときはもっぱら京都、
北山におりましたが、四年生のときに
三人の仲間とともに大和、つまり紀伊半島の
山へ行っているんです。まず台高(だいこう)山脈。
『台』は大台ケ原、『高』は高見山。
高見山、国見山を通っていっぺん下りて、
それから大台ケ原に登る。そこからまた下りて、
今度は大峰山系に取りかかるんです。
大峰山系といったら大きな深い山です。
 ・・・・
大峰山というものは不思議な存在でして、
これが日本における山岳宗教で修験道の中心です。
・・・
これのひとつが現在でもちゃんと生きておりまして、
本山派という派があります。
京都の聖護院がその本部になる。それから、
当山派というのは京都の醍醐寺です。これらが
大峰山を中心に展開しているんです。

わたしの父はその聖護院派、本山派の
いわゆる先達(せんだち)でした。
先達というのは、今でいうリーダーですね。

何度か大峰山に行った経験を積むと、
聖護院から先達という称号をもらうんです。
先達は市民たちの登山団体を組織して引っ張っていく。
私の父はこれをやっておりました。
ちゃんと行者の装束とつけて、
何年かにいっぺんは山へ行っておったのを覚えております。
 ・・・・
わたしの父は元鱗組という組で、
それのリーダーでした。多分、江戸時代に
始まったものだと思います。
・・・市民の中の登山団体なんです。
京都は当時すでに大都市ですから、
その大都市の市民の組織した講があった。
その講が大衆を連れて山へ行くわけです。
 ・・・・
これは世界的な傾向ですけれど、
山に住んでいる人は山へ行かない。
登山というのは必ず大都市で始まるんです。
・・・・
日本も同じことです。
だいたい信州の人は山へ行かない。
今はだいぶ行っていますけれど、
多くは京都の人です。
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