和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

きょうは、けいこ日や。

2019-06-01 | 本棚並べ
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋)に
一読忘れられない箇所があります。

「こんなことを書けば奇異に感じる人もいるだろうが、
私は日本の詩歌で最高のものは、
和歌でもなく、連歌、俳句、新体詩でもなく、
謡曲だと思っている。
謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。
そして謡曲二百何十番の中で、『松風』はもっとも
優れている。私は読むたびに感激する。

私ひとりがそう思うのではない。
コロンビア大学で教え始めて少なくとも
7回か8回、学生とともに『松風』を読んだが、
感激しない学生は、いままで一人もいない。
異口同音に『日本語を習っておいて、よかった』と言う。
実際、どんなに上手に翻訳しても、
『松風』のよさを十分に伝えることは、
おそらく不可能であろう。」(p57)

う~ん。これを読んでハッとさせられたのですが、
ハッとしたまま、謡曲への興味は消えておりました(笑)。

それでも、『謡曲』という言葉があると、
いったい、どう書かれているか気にはなります。

昨日、松田道雄の本12「私の手帖から」(筑摩書房)の
目次をひらくと、「謡曲とピアノ」という題がある。
ご存知のとおり、松田道雄は小児科のお医者です。
大正のはじめ、父親が、京都の真ん中で中京(なかぎょう)に
小児科を開業した時は、借家でした。
さて、途中から引用します。

「・・私の家は借家だったので、
お祭りとか、おせんどんとかの
伝統行事からはずされていました。
異端者であったためでしょう。
私は周囲の子どもたちの生態を
いくらか客観的に観察することができました。

学校にいきだしてすぐ気がついたのは
『いちろく』とか『さんぱち』とかいって、
友人が放課後のあそびにくわわらないことでした。
彼らは謡曲の先生のところにかよっていたのでした。
『いちろく』というのは、一のつく日、六のつく日に
稽古があるということでした。『さんぱち』は三と八です。
 ・・・・・・
『いちろく』とか『さんぱち』とかで、
街路でやる三角ベースという、一塁、投手盤、ホームベース
しかない野球に参加できなくても、
謡曲をならいにいく子はそれほど不服
のようでありませんでした。
『きょうはけいこ日や』
という彼らの口調は、
きょうは雨がふっているわと
自然現象をはなすときとおなじでした。

彼らの父親も祖父も、彼らの年齢のときは、
『いちろく』か『さんぱち』かには、
謡曲のけいこにいきました。
かえってきて祖父か父親のまえでおさらいをしました。
それは祇園祭やおせんどのように、
昔からきまっていることでした。

学芸会にも、読本の朗読や、唱歌の独唱とならんで、
謡曲や仕舞がありました。
伝統芸術というのは、ああいうものだと思います。
それは、このごろよくテレビにでてくる伝統芸芸術とちがって、
観光とは無縁です。・・・」(p188~189)


中京の商家の子どもの『きょうはけいこ日や』を読んでいると、
ドナルド・キーンさんの先の言葉を、思い浮かべてしまいます。

コメント
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