「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ新書)の
最初の方に、和辻哲郎氏が語られている場面があり、
印象的でした(聞き手は小山修三)。
小山】 和辻哲郎さんなんかはもう、ヨーロッパ賛美でしょ。
こう和辻さんを話題にする小山さんです(笑)。
梅棹】 和辻さんという人は、大学者にはちがいない。ただ
『風土』はまちがいだらけの本だと思う。中尾がつくづく言ってた。
『どうしてこんなまちがいをやったんだろうな』と。
小山】 机上論とヨーロッパ教。
梅棹】そうや、どうして『風土』などと言っておきながら、
ヨーロッパの農場に雑草がないなどと、そんなバカなことを
言うのか。そうしてそんなまちがいが起こるのか。中尾流に言えば、
『自分の目で見とらんから』です。何かもう非常に清潔で、
整然たるものだと思い込んでいる。
ヨーロッパの猥雑さというものがどんなものか。
そんなことが、現地で見ているはずなのに、どうして見えないのか。
・・・・
見せかけにだまされるのならまだいい。
それとはちがうな。あれは思い込みや。
わたしが『ヨーロッパ探検』などと言い出したので、
びっくりされたこともあった。『ヨーロッパは学びに
行くところであって、調査に行くところとちがう』と。
それでわたしは怒って、文部省にガンガン折衝して、
ヨーロッパがいかにそういうイメージとちがうところか
ということを説得した。・・・・
『学びに行くヨーロッパ』がいかに『ヨーロッパの本質』
とちがうか、それがわからない。
民博設立のベースには、多少そういうものがあったと思う。
小山】 まだパリやロンドンの体験がないのに、
ヨーロッパはそんなものとはちがうって言い切れる
自信はどこにあったんですか?
梅棹】 それはやっぱり中国大陸とインドの体験が大きい。
中国とインドを知っている。その延長としてのヨーロッパ
があるっていうことだったんやないかなあ。もう
はっきり覚えてないから、ちょっとちがうかもしれんけど。
(p26~28)
え~と。そうそう、
「言語生活」昭和31年1月号の座談会をひらいていたら、
座談の話題に和辻哲郎氏が登場する箇所があり印象深い。
西尾実】 ・・ぼくはいつか和辻(哲郎)さんに、
―――和辻さんは兵庫県ですが、
あまり向こうのことばのくせがないんですね、
『どういうふうに郷里のことばを感じますか』と聞いたら、
『大嫌いだ。小さい時から自分は今の口語文、
標準語的な言葉が好きだった』。
『何で覚えましたか』と言ったら、『(巌谷)小波の物を
読んで小さい時にああいう文体で文章を書いた』
と言われたことを覚えていますがね。
(p4)
思い浮かんできたのは、
桑原武夫・司馬遼太郎対談
『人工日本語の功罪について』でした。
桑原】・・・東京とはちがう地方文化、
例えば北海道や鹿児島で独特の地方文化を持つのは
無理至難なのではないか。それを持ちうるのは、
その地方の人々が方言で喋ることを恥としない、
あえて誇りと思わなくても、少なくとも恥としない
ところにしか地方文化はない。それが
わたしの地方文化の定義です、といったんです。
そうすると、地方文化がまだあるのは上方だけです。
わたしは場合によれば京都弁を喋る。
大阪の作家はみんな日常大阪弁を使う。
しかし、例えば名古屋では、これは名古屋の人が
聞いたら怒るかもしれないけれど、
『そうきゃあも』などという名古屋弁を
もう使わなくなりましたね。恥じている。
東北地方の人にもそれがいえます。
そこへ、片方からラジオやテレビで
ローラーをかけていますからね。
地方の言葉を捨てて
地方文化を守るのは不可能だと思うんです。
司馬さんも語ります。
司馬】 地方に住んでいる人は、いままで、
標準語を使えないということで劣等感がありましたが、
最近はちょっとひらき直って、
多少の自信を持つようになったのではないでしょうか。
まあ、標準語で話すと感情のディテールが表現できない。
ですから標準語で話をする人が、
そらぞらしく見えてしょうがない(笑)、
あの人はああいうことをいってるが、嘘じゃないか(笑)。
東京にも下町言葉というちゃんとした感情表現力のある
ことばがありますが、新標準語一点張りで
生活をしている場合、問題が起きますね。
話し言葉は自分の感情のニュアンスを表わすべきものなのに、
標準語では論理性だけが厳しい。
ですから・・・・・」
うん。時代は和辻哲郎コースを、
歩んできてしまったらしい(笑)。
農場に雑草がなく、きれいな和辻哲郎コース。
和辻哲郎コースから見た北朝鮮賛美。
和辻哲郎コースから見た、中国賛美。
和辻哲郎コースから見た、韓国賛美。
このコースから降りられなくなった、
和辻哲郎コースに、寄り添う新聞。
それらの新聞に寄り添う地方新聞。
なんてことに、思い至るのであります。
ちなみに、
「言語生活」の座談会は1956年1月号。
そして、
桑原・司馬対談の「文藝春秋」掲載は、
1971年1月号となっておりました。
最初の方に、和辻哲郎氏が語られている場面があり、
印象的でした(聞き手は小山修三)。
小山】 和辻哲郎さんなんかはもう、ヨーロッパ賛美でしょ。
こう和辻さんを話題にする小山さんです(笑)。
梅棹】 和辻さんという人は、大学者にはちがいない。ただ
『風土』はまちがいだらけの本だと思う。中尾がつくづく言ってた。
『どうしてこんなまちがいをやったんだろうな』と。
小山】 机上論とヨーロッパ教。
梅棹】そうや、どうして『風土』などと言っておきながら、
ヨーロッパの農場に雑草がないなどと、そんなバカなことを
言うのか。そうしてそんなまちがいが起こるのか。中尾流に言えば、
『自分の目で見とらんから』です。何かもう非常に清潔で、
整然たるものだと思い込んでいる。
ヨーロッパの猥雑さというものがどんなものか。
そんなことが、現地で見ているはずなのに、どうして見えないのか。
・・・・
見せかけにだまされるのならまだいい。
それとはちがうな。あれは思い込みや。
わたしが『ヨーロッパ探検』などと言い出したので、
びっくりされたこともあった。『ヨーロッパは学びに
行くところであって、調査に行くところとちがう』と。
それでわたしは怒って、文部省にガンガン折衝して、
ヨーロッパがいかにそういうイメージとちがうところか
ということを説得した。・・・・
『学びに行くヨーロッパ』がいかに『ヨーロッパの本質』
とちがうか、それがわからない。
民博設立のベースには、多少そういうものがあったと思う。
小山】 まだパリやロンドンの体験がないのに、
ヨーロッパはそんなものとはちがうって言い切れる
自信はどこにあったんですか?
梅棹】 それはやっぱり中国大陸とインドの体験が大きい。
中国とインドを知っている。その延長としてのヨーロッパ
があるっていうことだったんやないかなあ。もう
はっきり覚えてないから、ちょっとちがうかもしれんけど。
(p26~28)
え~と。そうそう、
「言語生活」昭和31年1月号の座談会をひらいていたら、
座談の話題に和辻哲郎氏が登場する箇所があり印象深い。
西尾実】 ・・ぼくはいつか和辻(哲郎)さんに、
―――和辻さんは兵庫県ですが、
あまり向こうのことばのくせがないんですね、
『どういうふうに郷里のことばを感じますか』と聞いたら、
『大嫌いだ。小さい時から自分は今の口語文、
標準語的な言葉が好きだった』。
『何で覚えましたか』と言ったら、『(巌谷)小波の物を
読んで小さい時にああいう文体で文章を書いた』
と言われたことを覚えていますがね。
(p4)
思い浮かんできたのは、
桑原武夫・司馬遼太郎対談
『人工日本語の功罪について』でした。
桑原】・・・東京とはちがう地方文化、
例えば北海道や鹿児島で独特の地方文化を持つのは
無理至難なのではないか。それを持ちうるのは、
その地方の人々が方言で喋ることを恥としない、
あえて誇りと思わなくても、少なくとも恥としない
ところにしか地方文化はない。それが
わたしの地方文化の定義です、といったんです。
そうすると、地方文化がまだあるのは上方だけです。
わたしは場合によれば京都弁を喋る。
大阪の作家はみんな日常大阪弁を使う。
しかし、例えば名古屋では、これは名古屋の人が
聞いたら怒るかもしれないけれど、
『そうきゃあも』などという名古屋弁を
もう使わなくなりましたね。恥じている。
東北地方の人にもそれがいえます。
そこへ、片方からラジオやテレビで
ローラーをかけていますからね。
地方の言葉を捨てて
地方文化を守るのは不可能だと思うんです。
司馬さんも語ります。
司馬】 地方に住んでいる人は、いままで、
標準語を使えないということで劣等感がありましたが、
最近はちょっとひらき直って、
多少の自信を持つようになったのではないでしょうか。
まあ、標準語で話すと感情のディテールが表現できない。
ですから標準語で話をする人が、
そらぞらしく見えてしょうがない(笑)、
あの人はああいうことをいってるが、嘘じゃないか(笑)。
東京にも下町言葉というちゃんとした感情表現力のある
ことばがありますが、新標準語一点張りで
生活をしている場合、問題が起きますね。
話し言葉は自分の感情のニュアンスを表わすべきものなのに、
標準語では論理性だけが厳しい。
ですから・・・・・」
うん。時代は和辻哲郎コースを、
歩んできてしまったらしい(笑)。
農場に雑草がなく、きれいな和辻哲郎コース。
和辻哲郎コースから見た北朝鮮賛美。
和辻哲郎コースから見た、中国賛美。
和辻哲郎コースから見た、韓国賛美。
このコースから降りられなくなった、
和辻哲郎コースに、寄り添う新聞。
それらの新聞に寄り添う地方新聞。
なんてことに、思い至るのであります。
ちなみに、
「言語生活」の座談会は1956年1月号。
そして、
桑原・司馬対談の「文藝春秋」掲載は、
1971年1月号となっておりました。