梅棹忠夫著「知的生産の技術」の
第五章「整理と事務」のはじまり。
「わたしが小学生のころの教科書にあった
話だとおもうが、本居宣長は、自分の家の
書棚から、あかりをつけずに必要な本を
とりだすことができたという。また、
どこそこの棚の右から何番目、といわれてみると、
ちゃんとその本があった、というような話もきいた。」
(p79)
梅棹忠夫対談集「博物館の思想」(平凡社)の最後に
日高敏隆氏との対談「博物館の理想」が載っています。
はじまりは日高氏。
日高】目が不自由になられたということを聞いて
たいへんショックを受けたんです。
これからどうされるんだろうと思って、ところが、
どんどん本は出てくるし、さすがすごいと。
梅棹】いまはほとんど見えませんが、
著作はちゃんとできるんです。
・・・・・・・
日高】インプットがなくても、どんどん本ができる
のがふしぎです。
梅棹】幸いなことに、いろいろな仕掛けを持っているんです。
たとえば資料が全部、ファイリングシステムとカードシステム
になっている。だから、わたしはものを探すことがほとんど
いらないんです。こういう書類がこのへんにあるはずだというと、
ちゃんと出てくるんです。そこまでは仕掛けができていたんです。
整理していなかったら、それはとてもできません。
日高】『知的生産の技術』を読んだときに、そうせにゃあかんな
と思ったんですが、やっぱりなかなかできない。
あきまへんね、ぼくらは。
梅棹】わたしどもの博物館全体が、カートシステムの
延長のようなものです。
(p285~286)
さてっと、梅原忠夫著作集の第13巻月報に
楠田實氏が「闘士・梅原忠夫」と題して書いており、
ここでは、失明から後のことに、言及されています。
「梅棹さんが失明されたと聞いた・・・
退院後は月、水、金と三日間、民博に出勤するかたわら、
出版社と執筆の約束をしながら、
原稿ができないままになっていた
筆債の履行を、口述筆記で開始された。まず角川書店から
『梅棹忠夫の京都案内』、続いて『京都の精神』
『日本三都論――東京・大阪・京都』。
この三部作の完成が弾みになって、懸案の
『梅棹忠夫著作集』に手をつけることになったものである。」
はい。失明する以前のことも、語られております。
「かつて、大阪千里の万博跡地に国立民俗博物館を創設すべく、
・・梅棹さんが、政・財・官界の関係者の一人びとりに会って
趣旨を訴え、協力を要請した。予算獲得のために文部省の
科学官室に一か月も泊り込んだ。あのときの気迫はすごかったが、
こんどの著作集刊行も、それに劣らぬ気迫を感じさせるものがある。
周辺に独特のメカニズムが構築されているとはいえ、おそらく
数十冊になるであろう著作集を、頭の中で整理して完成するのは
気の遠くなるような大作業である。並たいていの気力では
できるものではない。それをやり抜くところに、
闘士・梅棹忠夫の真骨頂をみる。」
楠田氏の月報の文の最後を引用しなければ、
「闘士」の意味が通じないかもしれません。
ということで、最後を引用。
「わが国でも近年、国際文化交流の重要さが
認識され始めたが、きっかけは梅棹さんの発言であった。
・・・・・・
その中で梅棹さんは次のように語った。
『私が前から言っている単純明快なセオリーがある。
国際交流とはピースミールの戦争だ。
ドンドンパチパチ本当に始まる前に、
なしくずしで、みんなの心のなかを
ぐちゃぐちゃにしておく仕事だ。
そうすると戦争が起らなくなる。
相互理解というとカッコいいけれど、
本当はよその文化を理解するなんて不愉快きわまることだ。
お互いに腹の立つことはいっぱいある。
しかし腹を立てて殴り合っては損だから、
お互いにいやなことでも辛抱し、
情報を交換して意思の疎通をしておいた方がいい。
私の言う国際交流とはこういうことです』。
この発言の社会に対するインパクトは大きかった。
主要新聞が一斉に社説やコラムでとりあげ、
政治や行政の認識が深まって
日本の文化交流事業に追い風が吹き始めた。
梅棹さんというのはそういう人なのである。」
はい。この月報は、はじまりが川喜田二郎さんです。
楠田實さんの文は全文引用したくなるほどなのです。
ちなみに、梅棹忠夫著作集は全22巻、別巻1。
私はまだ、月報を数枚読んだばかり(笑)。
第五章「整理と事務」のはじまり。
「わたしが小学生のころの教科書にあった
話だとおもうが、本居宣長は、自分の家の
書棚から、あかりをつけずに必要な本を
とりだすことができたという。また、
どこそこの棚の右から何番目、といわれてみると、
ちゃんとその本があった、というような話もきいた。」
(p79)
梅棹忠夫対談集「博物館の思想」(平凡社)の最後に
日高敏隆氏との対談「博物館の理想」が載っています。
はじまりは日高氏。
日高】目が不自由になられたということを聞いて
たいへんショックを受けたんです。
これからどうされるんだろうと思って、ところが、
どんどん本は出てくるし、さすがすごいと。
梅棹】いまはほとんど見えませんが、
著作はちゃんとできるんです。
・・・・・・・
日高】インプットがなくても、どんどん本ができる
のがふしぎです。
梅棹】幸いなことに、いろいろな仕掛けを持っているんです。
たとえば資料が全部、ファイリングシステムとカードシステム
になっている。だから、わたしはものを探すことがほとんど
いらないんです。こういう書類がこのへんにあるはずだというと、
ちゃんと出てくるんです。そこまでは仕掛けができていたんです。
整理していなかったら、それはとてもできません。
日高】『知的生産の技術』を読んだときに、そうせにゃあかんな
と思ったんですが、やっぱりなかなかできない。
あきまへんね、ぼくらは。
梅棹】わたしどもの博物館全体が、カートシステムの
延長のようなものです。
(p285~286)
さてっと、梅原忠夫著作集の第13巻月報に
楠田實氏が「闘士・梅原忠夫」と題して書いており、
ここでは、失明から後のことに、言及されています。
「梅棹さんが失明されたと聞いた・・・
退院後は月、水、金と三日間、民博に出勤するかたわら、
出版社と執筆の約束をしながら、
原稿ができないままになっていた
筆債の履行を、口述筆記で開始された。まず角川書店から
『梅棹忠夫の京都案内』、続いて『京都の精神』
『日本三都論――東京・大阪・京都』。
この三部作の完成が弾みになって、懸案の
『梅棹忠夫著作集』に手をつけることになったものである。」
はい。失明する以前のことも、語られております。
「かつて、大阪千里の万博跡地に国立民俗博物館を創設すべく、
・・梅棹さんが、政・財・官界の関係者の一人びとりに会って
趣旨を訴え、協力を要請した。予算獲得のために文部省の
科学官室に一か月も泊り込んだ。あのときの気迫はすごかったが、
こんどの著作集刊行も、それに劣らぬ気迫を感じさせるものがある。
周辺に独特のメカニズムが構築されているとはいえ、おそらく
数十冊になるであろう著作集を、頭の中で整理して完成するのは
気の遠くなるような大作業である。並たいていの気力では
できるものではない。それをやり抜くところに、
闘士・梅棹忠夫の真骨頂をみる。」
楠田氏の月報の文の最後を引用しなければ、
「闘士」の意味が通じないかもしれません。
ということで、最後を引用。
「わが国でも近年、国際文化交流の重要さが
認識され始めたが、きっかけは梅棹さんの発言であった。
・・・・・・
その中で梅棹さんは次のように語った。
『私が前から言っている単純明快なセオリーがある。
国際交流とはピースミールの戦争だ。
ドンドンパチパチ本当に始まる前に、
なしくずしで、みんなの心のなかを
ぐちゃぐちゃにしておく仕事だ。
そうすると戦争が起らなくなる。
相互理解というとカッコいいけれど、
本当はよその文化を理解するなんて不愉快きわまることだ。
お互いに腹の立つことはいっぱいある。
しかし腹を立てて殴り合っては損だから、
お互いにいやなことでも辛抱し、
情報を交換して意思の疎通をしておいた方がいい。
私の言う国際交流とはこういうことです』。
この発言の社会に対するインパクトは大きかった。
主要新聞が一斉に社説やコラムでとりあげ、
政治や行政の認識が深まって
日本の文化交流事業に追い風が吹き始めた。
梅棹さんというのはそういう人なのである。」
はい。この月報は、はじまりが川喜田二郎さんです。
楠田實さんの文は全文引用したくなるほどなのです。
ちなみに、梅棹忠夫著作集は全22巻、別巻1。
私はまだ、月報を数枚読んだばかり(笑)。