西堀栄三郎に関する3冊。
「桑原武夫集5」(岩波書店)
「梅棹忠夫著作集第16巻」(中央公論)
西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書)
まずは、司馬遼太郎の講演から。
「週刊誌と日本語」という講演。
「西堀栄三郎さんという方がいます。
京都大学の教授も務めた、大変な学者です。
探検家でもあり、南極越冬隊の隊長でもありました。
桑原さんと西堀さんは高等学校が一緒です。
南極探検から帰ってきて名声とみに高し
という時期の話です。
西堀さんはすぐれた学者ですが、
しかし文章をお書きにならない。
桑原さんはこう言った。
『だから、お前さんはだめなんだ。
自分の体験してきたことを
文章に書かないというのは、非常によくない』
・・・
『じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ』
私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うから
すごいと思うのです。
『お前さんは電車の中で週刊誌を読め』
西堀さんはおたおたしたそうです。
『週刊誌を読んだことがない』
・・・・・・
だれもが簡単に書いていることに
驚きを感じたらどうだろうか。
それができずに苦労していた時代もあったのですから。
この時代に共通の日本語ができつつあったのでは
ないかと桑原さんに言ったところ、
桑原さんは言いました。
『週刊誌時代がはじまってからと違うやろうか』
昭和32年から昭和35年にかけてぐらいではないかと
言われるものですから、私も意外でした。
・・・・・
それから西堀さんは一年間で、
文章がちゃんと書けるようになられたそうであります。」
はい。ここから
「桑原武夫集」の「西堀南極越冬隊長」を引用して、
「梅棹忠著作集」から「西堀栄三郎氏における技術と冒険」
のなかの「南極越冬記」を引用して、
最後に岩波新書「南極越冬記」の「あとがき」を引用。
桑原武夫の「西堀南極越冬隊長」のなかの、
この箇所を引用。
「彼(西堀)は戦後、推計学を勉強した。そして
日本へもよく来たアメリカ第一の推計学者、
デミング博士の一の弟子である。もっとも西堀は、
ものを書くことが何よりきらいで、著書は一つもないから、
すべて本がなければ信用せぬ日本の学界では、そんなに
評価されていない。しかしデミング博士に推計学者の
評価をきくと、日本では西堀が一番だと答える。
日本の学者はみな論理家的すぎる。
しかし肝腎なのは現実を推計しうるか否かにかかる。
西堀はこの理論、あの理論などということは一切いわぬが、
問題を解決するのが一ばん早くて正確だ、というのである。
彼はつねに実践家たらんとする。そして推計学をふまえた
品質管理において、彼は日本の工業界に大きな実際的貢献を
している。その一番有名なのが、旭化成の延岡ベンベルグ
工場での硬糸防止の仕事である。・・・」
(p30~31・1957年)
つぎの梅棹忠夫の文は以前に引用したので、
ここでは、カット(笑)。
そして、最後は、
西堀栄三郎著「南極越冬記」のあとがき。
「南極へ旅立つにあたって、
わたしは親友の桑原武夫君から宣告をうけた。
『帰国後に一書を公刊することはお前の義務である』と。
もっともだと思う。熱心な声援を送って下さったたくさん
の人たちに対して、わたしは自分の得てきた体験を
報告しなければならぬだろう。
しかし、いったいどうして本をつくるのか。わたしは生来、
字を書くことがとてもきらいである。この年になるまで、
本というものをほとんど書いたことがない。桑原君は
『南極越冬中にすこしずつ書きためればよい』といった。
わたしはそうする約束をした。
桑原君はわたしの日ごろを知っているから、
あぶないと思ったのだろう。越冬中に、
NHKの南極向け放送を通じて、
『原稿は書いているだろうね!』とダメをおしてきた。
しかし、そのときまではまだ、ざんねんながら
原稿らしきものは一字も書いていなかったのだ。
わたしは、電報で『努力する』と返事してやったが、
心に大きな負担を感じるばかりで、ちっとも実行は
できなかった。『帰ったら、あやまるまでだ』と、
おうちゃくな気もちにでもならなければ、
この心の重荷にたえられなかった。
・・・帰ってきたとき、
『西堀はやはりまとまった原稿は書いていなかった』
のだ。・・しかし、わたしがほんのメモがわりに
毎日つけていた越冬個人日記があった。また、
断片的に書きちらしたノートや原稿があった。
これに若干の私見を書き加えて一書にし、
国民に対する責をはたすべきだと力説した。
かれの意見に従おうと思ったけれど、
時間の余裕があった南極越冬中でさえ、
何一つ書きまとめることもできなかったわたしである。
帰国後のものすごい忙しさの中で、とうてい桑原君の
いうようなことができようはずがない。
らちのあかぬわたしをはげましながら、
桑原君は、いろいろと手配をし、指図をしてくれた。
本つくりは進行をはじめた。
だが、ちょうど、みんなが忙しいときだった。
桑原君は間もなく、京大のチョゴリザ遠征隊の隊長として、
カラコルムへ向け出発してしまった。しかし、
運のいいことには、ちょうどそのまえに、
東南アジアから梅棹忠夫君が帰ってきた。
そして、桑原君からバトンをひきついで、
かれもまた帰国早々の忙しいなかを、
わたしの本の完成のために、ひじょうな
努力をしてくれたのであった。
桑原・梅棹の両君の応援がなかたならば、
この本はとうてい世にあらわれることが
できなかったにちがいない。・・・」
(p267~268)
はい。司馬遼太郎の講演と、
そして、この3冊とで見えて来るものがある。
そういえば、
「梅棹忠夫語る」に
こんな箇所がありました。
小川】民博をつくるとき、
梅棹さんは一人ひとりの論文を読んで、
学会に行って発表を聞いて、これはいい
だろうと採ってきたと言わています。
梅棹】そうやった。当時は山椒大夫です。
人買い稼業。それで、これはっていうのを買ってくる。
・・・・
小川】ところが梅棹さんは、それだけ選びながら、
『おまえら新聞に書け』と連載か何かさせたでしょう。
そしたら、書けないやつがいっぱいいて、
『これはひどい』ってやめたって。
梅棹】そういうことがあったな。全然だめやった。
(p143~144)
はい。『これはひどい』引用を重ねております(笑)。
「桑原武夫集5」(岩波書店)
「梅棹忠夫著作集第16巻」(中央公論)
西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書)
まずは、司馬遼太郎の講演から。
「週刊誌と日本語」という講演。
「西堀栄三郎さんという方がいます。
京都大学の教授も務めた、大変な学者です。
探検家でもあり、南極越冬隊の隊長でもありました。
桑原さんと西堀さんは高等学校が一緒です。
南極探検から帰ってきて名声とみに高し
という時期の話です。
西堀さんはすぐれた学者ですが、
しかし文章をお書きにならない。
桑原さんはこう言った。
『だから、お前さんはだめなんだ。
自分の体験してきたことを
文章に書かないというのは、非常によくない』
・・・
『じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ』
私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うから
すごいと思うのです。
『お前さんは電車の中で週刊誌を読め』
西堀さんはおたおたしたそうです。
『週刊誌を読んだことがない』
・・・・・・
だれもが簡単に書いていることに
驚きを感じたらどうだろうか。
それができずに苦労していた時代もあったのですから。
この時代に共通の日本語ができつつあったのでは
ないかと桑原さんに言ったところ、
桑原さんは言いました。
『週刊誌時代がはじまってからと違うやろうか』
昭和32年から昭和35年にかけてぐらいではないかと
言われるものですから、私も意外でした。
・・・・・
それから西堀さんは一年間で、
文章がちゃんと書けるようになられたそうであります。」
はい。ここから
「桑原武夫集」の「西堀南極越冬隊長」を引用して、
「梅棹忠著作集」から「西堀栄三郎氏における技術と冒険」
のなかの「南極越冬記」を引用して、
最後に岩波新書「南極越冬記」の「あとがき」を引用。
桑原武夫の「西堀南極越冬隊長」のなかの、
この箇所を引用。
「彼(西堀)は戦後、推計学を勉強した。そして
日本へもよく来たアメリカ第一の推計学者、
デミング博士の一の弟子である。もっとも西堀は、
ものを書くことが何よりきらいで、著書は一つもないから、
すべて本がなければ信用せぬ日本の学界では、そんなに
評価されていない。しかしデミング博士に推計学者の
評価をきくと、日本では西堀が一番だと答える。
日本の学者はみな論理家的すぎる。
しかし肝腎なのは現実を推計しうるか否かにかかる。
西堀はこの理論、あの理論などということは一切いわぬが、
問題を解決するのが一ばん早くて正確だ、というのである。
彼はつねに実践家たらんとする。そして推計学をふまえた
品質管理において、彼は日本の工業界に大きな実際的貢献を
している。その一番有名なのが、旭化成の延岡ベンベルグ
工場での硬糸防止の仕事である。・・・」
(p30~31・1957年)
つぎの梅棹忠夫の文は以前に引用したので、
ここでは、カット(笑)。
そして、最後は、
西堀栄三郎著「南極越冬記」のあとがき。
「南極へ旅立つにあたって、
わたしは親友の桑原武夫君から宣告をうけた。
『帰国後に一書を公刊することはお前の義務である』と。
もっともだと思う。熱心な声援を送って下さったたくさん
の人たちに対して、わたしは自分の得てきた体験を
報告しなければならぬだろう。
しかし、いったいどうして本をつくるのか。わたしは生来、
字を書くことがとてもきらいである。この年になるまで、
本というものをほとんど書いたことがない。桑原君は
『南極越冬中にすこしずつ書きためればよい』といった。
わたしはそうする約束をした。
桑原君はわたしの日ごろを知っているから、
あぶないと思ったのだろう。越冬中に、
NHKの南極向け放送を通じて、
『原稿は書いているだろうね!』とダメをおしてきた。
しかし、そのときまではまだ、ざんねんながら
原稿らしきものは一字も書いていなかったのだ。
わたしは、電報で『努力する』と返事してやったが、
心に大きな負担を感じるばかりで、ちっとも実行は
できなかった。『帰ったら、あやまるまでだ』と、
おうちゃくな気もちにでもならなければ、
この心の重荷にたえられなかった。
・・・帰ってきたとき、
『西堀はやはりまとまった原稿は書いていなかった』
のだ。・・しかし、わたしがほんのメモがわりに
毎日つけていた越冬個人日記があった。また、
断片的に書きちらしたノートや原稿があった。
これに若干の私見を書き加えて一書にし、
国民に対する責をはたすべきだと力説した。
かれの意見に従おうと思ったけれど、
時間の余裕があった南極越冬中でさえ、
何一つ書きまとめることもできなかったわたしである。
帰国後のものすごい忙しさの中で、とうてい桑原君の
いうようなことができようはずがない。
らちのあかぬわたしをはげましながら、
桑原君は、いろいろと手配をし、指図をしてくれた。
本つくりは進行をはじめた。
だが、ちょうど、みんなが忙しいときだった。
桑原君は間もなく、京大のチョゴリザ遠征隊の隊長として、
カラコルムへ向け出発してしまった。しかし、
運のいいことには、ちょうどそのまえに、
東南アジアから梅棹忠夫君が帰ってきた。
そして、桑原君からバトンをひきついで、
かれもまた帰国早々の忙しいなかを、
わたしの本の完成のために、ひじょうな
努力をしてくれたのであった。
桑原・梅棹の両君の応援がなかたならば、
この本はとうてい世にあらわれることが
できなかったにちがいない。・・・」
(p267~268)
はい。司馬遼太郎の講演と、
そして、この3冊とで見えて来るものがある。
そういえば、
「梅棹忠夫語る」に
こんな箇所がありました。
小川】民博をつくるとき、
梅棹さんは一人ひとりの論文を読んで、
学会に行って発表を聞いて、これはいい
だろうと採ってきたと言わています。
梅棹】そうやった。当時は山椒大夫です。
人買い稼業。それで、これはっていうのを買ってくる。
・・・・
小川】ところが梅棹さんは、それだけ選びながら、
『おまえら新聞に書け』と連載か何かさせたでしょう。
そしたら、書けないやつがいっぱいいて、
『これはひどい』ってやめたって。
梅棹】そういうことがあったな。全然だめやった。
(p143~144)
はい。『これはひどい』引用を重ねております(笑)。