梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)の、
「まえがき」と「はじめに」だけで、私は満腹。
先へと読みすすめなくてもいいや(笑)。
うん。「はじめに」のなかに「やりかた」を
書いている箇所があるのでした。
その箇所と、梅棹忠夫著作集第16巻の月報の
木村雅昭氏の文とを並べてみたくなりました。
はじめに、新書のこの箇所を引用。
「高尚な、むつかしい話とはちがうのだ。
学問をこころざすものなら当然こころえておかねばならぬような、
きわめて基礎的な、研究のやりかたのことなのである。
研究者としてはごく日常的な問題だが、
たとえば、現象を観察し記録するにはどうするのがいいか、
あるいは、自分の発想を定着させ展開するにはどういう方法があるか、
こういうことを、学校ではなかなかおしえてくれないのである。
このことをわたしは、わかい研究者諸君の
指導をする立場にたつようになってから、気がついた。
大学をでて、あたらしく研究生活にはいってくる人たちは、
学問の方法論については堂々たる議論をぶつことはできても、
ごくかんたんな、本のよみかた、原稿のかきかたさえも
しらないということが、かならずしもめずらしくないのである。」
(p3~4)
はい。この箇所から、
著作集第16巻の月報が思い浮かびました。
月報の最初は、木村雅昭氏の「偉大なる先輩」。
月報のはじまりは
「私が初めて梅棹先生に親しくお目にかかったのは、
30年近く前のことである。たしか1964年に私たちが
中部ネパールのガネッシュ峰に遠征した直後のことと思う。
『新しい世界を経験した者には、
そのことを世に伝える義務がある』ということで、
梅棹先生のお世話で・・・登頂記、旅行記を
書かされるはめとなった。・・・
なにしろマーケットに売りに出す文章は、初めてのことである。
私を含めて4名の学生隊員は大いに苦労しつつも
とにかく書き上げて、監修者梅棹先生のところへ、
おそるおそる持参した。」
はい。肝心なのは、このあとです(笑)。
「先生は・・しばらく原稿に目を通しておられた。
そしてやおら開口一番『こんなもんあかん。
君達の文書を読んでもちっともイメージがわいてこんし、
それに思想性も全然ない。全面書き直し』。
『どこが悪いのですか』と尋ねても『全部や』の一点張り。
われわれはがっくりきた。とにかく先生に『ウン』と
言ってもらわないと本は出ない。
【もっと山に登りたい】という気持を押さえて、
泣く泣く書き直すはめとなった。
二度目に原稿を持っていっても、合格点はもらえない。
ついに先生は、自らペンをとって、私たちの文章を
真赤になるまで直して下さった。
なるほど見違えるほど良くなった。
『文章とはこのように書くのか』と、
眼からウロコが落ちた感じだった。
これを手本に書き直すように言われたが、
眼からウロコが落ちても、いざ自分で書き出すとなると
なかなか思うようにいかない。
結局、たった一冊の新書を仕上げるのに、
ずいぶんと先生の手をわずらわせてしまった。
先生は原稿すべてに目を通されなければ気がすまなかったが、
既に多忙をきわめておられた先生である。
なかなかその時間が見つからない。
やっと見つかって先生の御宅に押しかけても
『眠うてあかんわ』と寝てしまわれる。
・・横のソファーでは、梅棹先生がスヤスヤ眠っておられる。
とうとうこの本のために先生は、
私たちと共に徹夜して下さり、
やっと出版にこぎつけることができた。
いくらアドバイスしてもちっとも良くならん、
とサジを投げられた結果かもしれない。」
木村氏は、「1964年・・遠征した直後のことと思う」
と時期を書きこんでおりました。
ちなみに「知的生産の技術」が、新書として出たのは、
1969年7月となっておりました。
さらに、「知的生産の技術」の「まえがき」には
「1965年の4月から、岩波書店で発行している
雑誌『図書』に『知的生産の技術について』という題で、
連載記事をかきはじめた。はじめは、ほんの3,4回で
おわるつもりであった。かきはじめてみると、
これはとても、そんなにかんたんにカタがつくはなしではない、
ということが、はっきりしてきた。・・・・」
どれも、時期的に符合しあっております。
よくぞ、月報に書いておいてくれました。
そんな、ワクワク感が月報にはあります。
「まえがき」と「はじめに」だけで、私は満腹。
先へと読みすすめなくてもいいや(笑)。
うん。「はじめに」のなかに「やりかた」を
書いている箇所があるのでした。
その箇所と、梅棹忠夫著作集第16巻の月報の
木村雅昭氏の文とを並べてみたくなりました。
はじめに、新書のこの箇所を引用。
「高尚な、むつかしい話とはちがうのだ。
学問をこころざすものなら当然こころえておかねばならぬような、
きわめて基礎的な、研究のやりかたのことなのである。
研究者としてはごく日常的な問題だが、
たとえば、現象を観察し記録するにはどうするのがいいか、
あるいは、自分の発想を定着させ展開するにはどういう方法があるか、
こういうことを、学校ではなかなかおしえてくれないのである。
このことをわたしは、わかい研究者諸君の
指導をする立場にたつようになってから、気がついた。
大学をでて、あたらしく研究生活にはいってくる人たちは、
学問の方法論については堂々たる議論をぶつことはできても、
ごくかんたんな、本のよみかた、原稿のかきかたさえも
しらないということが、かならずしもめずらしくないのである。」
(p3~4)
はい。この箇所から、
著作集第16巻の月報が思い浮かびました。
月報の最初は、木村雅昭氏の「偉大なる先輩」。
月報のはじまりは
「私が初めて梅棹先生に親しくお目にかかったのは、
30年近く前のことである。たしか1964年に私たちが
中部ネパールのガネッシュ峰に遠征した直後のことと思う。
『新しい世界を経験した者には、
そのことを世に伝える義務がある』ということで、
梅棹先生のお世話で・・・登頂記、旅行記を
書かされるはめとなった。・・・
なにしろマーケットに売りに出す文章は、初めてのことである。
私を含めて4名の学生隊員は大いに苦労しつつも
とにかく書き上げて、監修者梅棹先生のところへ、
おそるおそる持参した。」
はい。肝心なのは、このあとです(笑)。
「先生は・・しばらく原稿に目を通しておられた。
そしてやおら開口一番『こんなもんあかん。
君達の文書を読んでもちっともイメージがわいてこんし、
それに思想性も全然ない。全面書き直し』。
『どこが悪いのですか』と尋ねても『全部や』の一点張り。
われわれはがっくりきた。とにかく先生に『ウン』と
言ってもらわないと本は出ない。
【もっと山に登りたい】という気持を押さえて、
泣く泣く書き直すはめとなった。
二度目に原稿を持っていっても、合格点はもらえない。
ついに先生は、自らペンをとって、私たちの文章を
真赤になるまで直して下さった。
なるほど見違えるほど良くなった。
『文章とはこのように書くのか』と、
眼からウロコが落ちた感じだった。
これを手本に書き直すように言われたが、
眼からウロコが落ちても、いざ自分で書き出すとなると
なかなか思うようにいかない。
結局、たった一冊の新書を仕上げるのに、
ずいぶんと先生の手をわずらわせてしまった。
先生は原稿すべてに目を通されなければ気がすまなかったが、
既に多忙をきわめておられた先生である。
なかなかその時間が見つからない。
やっと見つかって先生の御宅に押しかけても
『眠うてあかんわ』と寝てしまわれる。
・・横のソファーでは、梅棹先生がスヤスヤ眠っておられる。
とうとうこの本のために先生は、
私たちと共に徹夜して下さり、
やっと出版にこぎつけることができた。
いくらアドバイスしてもちっとも良くならん、
とサジを投げられた結果かもしれない。」
木村氏は、「1964年・・遠征した直後のことと思う」
と時期を書きこんでおりました。
ちなみに「知的生産の技術」が、新書として出たのは、
1969年7月となっておりました。
さらに、「知的生産の技術」の「まえがき」には
「1965年の4月から、岩波書店で発行している
雑誌『図書』に『知的生産の技術について』という題で、
連載記事をかきはじめた。はじめは、ほんの3,4回で
おわるつもりであった。かきはじめてみると、
これはとても、そんなにかんたんにカタがつくはなしではない、
ということが、はっきりしてきた。・・・・」
どれも、時期的に符合しあっております。
よくぞ、月報に書いておいてくれました。
そんな、ワクワク感が月報にはあります。