梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)の
「まえがき」には、
「わたしは、わかいときから
友だち運にめぐまれていたと、自分ではおもっている。
学生時代から、たくさんのすぐれた友人たちにかこまれて、
先生よりもむしろ、それらの友人たちから、
さまざまな知恵を、どっさりまなびとった。
研究生活にはいってからも、
勉強のしかた、研究のすすめかた、などについて、
友人からおしえられたことがたいへんおおい。・・・
研究のすすめかたの、ちょっとしたコツみたいなものが、
かえってほんとうの役にたったのである。」
はい。「知的生産の技術」再読。
今回、新書から著作集へ連想がひろがります。
梅棹忠夫著作集第16巻。
その「第16巻まえがき」にこうあります。
「第三部の『山の交遊録』は、山を通じての
先輩や友人たちとの交友の記録である。
わたしは山の先輩や友人からたくさん
のものをおしえられた。・・・・」
第16巻の目次をひらくと、単行本とか、雑誌で、
以前に読んでいて、印象に残っている文がある。
その、印象に残る箇所をここに引用。
「ひとつの時代のおわり ーー 今西錦司追悼」
には、文章指導の箇所がある。
「わたしは今西が理学部の自室で黙々と読書を
している姿をおもいだす。・・・・
読書指導のほかに、青年たちに対する文章の指導
もまことにきびしかった。論文をかいてもってゆくと、
徹底的になおされるのである。
文章をなおされるばかりではない。
論旨をなおされるのである。
おまえのこのかんがえはまちがっている、
と徹底的にたたかれるのである。
なおされて、もとの文章がほとんど
なくなってしまったこともある。
しかし、このきびしい論文指導のおかげで、
わたしは文章がかけるようになったとおもった。」
「西堀栄三郎における技術と冒険」では、
『南極越冬記』に関するこの箇所を引用。
「西堀さんは元気にかえってこられたが、
それからがたいへんだった。講演や座談会などに
ひっぱりだこだった。越冬中の記録を一冊の本に
して出版するという約束が、岩波書店とのあいだにできていた。
ある日、わたしは京都大学の桑原武夫教授によばれた。
桑原さんは、西堀さんの親友である。
桑原さんがいわれるには、
『西堀は自分で本をつくったりは、とてもようしよらんから、
君がかわりにつくってやれ』という命令である。
わたしは仰天した。
まあ、編集ぐらいのことなら手つだってもよいが、
いったい編集するだけの材料があるのだろうか。
ゴーストライターとして、全文を代筆するなどということは、
わたしにはとてもできない。
ところが、材料は山のようにあった。
大判ハードカバーの横罫のぶあついノートに、
西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。
そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、
さまざまなエッセイの原稿があった。
このままのかたちではどうしようもないので、
全部を縦がきの原稿用紙にかきなおしてもらった。
200字づめの原稿用紙で数千枚あった。
それを編集して、岩波新書一冊分にまでちぢめるのが
わたしの仕事だった。
わたしは原稿の山をもって、
熱海の伊豆山にある岩波書店の別荘にこもった。
全体としては、越冬中のできごとの経過をたどりながら、
要所要所にエピソードをはさみこみ、
いくつもの山場をもりあげてゆくのである。
大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとに
クリップでとめた原稿用紙をならべて、
それをつなぎながら冗長な部分をけずり、
文章のなおしてゆくのである。
この作業は時間がかかり労力を要したが、
どうやらできあがった。この別荘に一週間以上も
とまりこんだように記憶している。
途中いちど、西堀さんが陣中見舞にこられた。
そして、わたしの作業の進行ぶりをみて、
『わしのかわりに本をつくるなんて、
とてもできないとおもっていたが、
なんとかなっているやないか』と、
うれしそうな顔でいわれた。
岩波新書『南極越冬記』は1958年7月に刊行された。
たいへん好評で、売れゆきは爆発的だったようである。」
そういえばと、
「今西錦司追悼」の最後を引用。
「わたしが師とあおいだ先学はすくなくない。
桑原武夫、西堀栄三郎、宮地伝三郎、貝塚茂樹、湯川秀樹
の人たちである。かれらはみんなほとんど同年輩で、
20世紀の初頭にうまれでて、この世紀をいきてきた人たちである。
・・・・・・・
わたしたちの世代は、それをこの先人たちからひきついだのである。
しかし、みんないなくなってしまった。ひとりずつ消えて、
そしていま、最後の巨星が消えた。ひとつの時代がおわったのである。」
「まえがき」には、
「わたしは、わかいときから
友だち運にめぐまれていたと、自分ではおもっている。
学生時代から、たくさんのすぐれた友人たちにかこまれて、
先生よりもむしろ、それらの友人たちから、
さまざまな知恵を、どっさりまなびとった。
研究生活にはいってからも、
勉強のしかた、研究のすすめかた、などについて、
友人からおしえられたことがたいへんおおい。・・・
研究のすすめかたの、ちょっとしたコツみたいなものが、
かえってほんとうの役にたったのである。」
はい。「知的生産の技術」再読。
今回、新書から著作集へ連想がひろがります。
梅棹忠夫著作集第16巻。
その「第16巻まえがき」にこうあります。
「第三部の『山の交遊録』は、山を通じての
先輩や友人たちとの交友の記録である。
わたしは山の先輩や友人からたくさん
のものをおしえられた。・・・・」
第16巻の目次をひらくと、単行本とか、雑誌で、
以前に読んでいて、印象に残っている文がある。
その、印象に残る箇所をここに引用。
「ひとつの時代のおわり ーー 今西錦司追悼」
には、文章指導の箇所がある。
「わたしは今西が理学部の自室で黙々と読書を
している姿をおもいだす。・・・・
読書指導のほかに、青年たちに対する文章の指導
もまことにきびしかった。論文をかいてもってゆくと、
徹底的になおされるのである。
文章をなおされるばかりではない。
論旨をなおされるのである。
おまえのこのかんがえはまちがっている、
と徹底的にたたかれるのである。
なおされて、もとの文章がほとんど
なくなってしまったこともある。
しかし、このきびしい論文指導のおかげで、
わたしは文章がかけるようになったとおもった。」
「西堀栄三郎における技術と冒険」では、
『南極越冬記』に関するこの箇所を引用。
「西堀さんは元気にかえってこられたが、
それからがたいへんだった。講演や座談会などに
ひっぱりだこだった。越冬中の記録を一冊の本に
して出版するという約束が、岩波書店とのあいだにできていた。
ある日、わたしは京都大学の桑原武夫教授によばれた。
桑原さんは、西堀さんの親友である。
桑原さんがいわれるには、
『西堀は自分で本をつくったりは、とてもようしよらんから、
君がかわりにつくってやれ』という命令である。
わたしは仰天した。
まあ、編集ぐらいのことなら手つだってもよいが、
いったい編集するだけの材料があるのだろうか。
ゴーストライターとして、全文を代筆するなどということは、
わたしにはとてもできない。
ところが、材料は山のようにあった。
大判ハードカバーの横罫のぶあついノートに、
西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。
そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、
さまざまなエッセイの原稿があった。
このままのかたちではどうしようもないので、
全部を縦がきの原稿用紙にかきなおしてもらった。
200字づめの原稿用紙で数千枚あった。
それを編集して、岩波新書一冊分にまでちぢめるのが
わたしの仕事だった。
わたしは原稿の山をもって、
熱海の伊豆山にある岩波書店の別荘にこもった。
全体としては、越冬中のできごとの経過をたどりながら、
要所要所にエピソードをはさみこみ、
いくつもの山場をもりあげてゆくのである。
大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとに
クリップでとめた原稿用紙をならべて、
それをつなぎながら冗長な部分をけずり、
文章のなおしてゆくのである。
この作業は時間がかかり労力を要したが、
どうやらできあがった。この別荘に一週間以上も
とまりこんだように記憶している。
途中いちど、西堀さんが陣中見舞にこられた。
そして、わたしの作業の進行ぶりをみて、
『わしのかわりに本をつくるなんて、
とてもできないとおもっていたが、
なんとかなっているやないか』と、
うれしそうな顔でいわれた。
岩波新書『南極越冬記』は1958年7月に刊行された。
たいへん好評で、売れゆきは爆発的だったようである。」
そういえばと、
「今西錦司追悼」の最後を引用。
「わたしが師とあおいだ先学はすくなくない。
桑原武夫、西堀栄三郎、宮地伝三郎、貝塚茂樹、湯川秀樹
の人たちである。かれらはみんなほとんど同年輩で、
20世紀の初頭にうまれでて、この世紀をいきてきた人たちである。
・・・・・・・
わたしたちの世代は、それをこの先人たちからひきついだのである。
しかし、みんないなくなってしまった。ひとりずつ消えて、
そしていま、最後の巨星が消えた。ひとつの時代がおわったのである。」