和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「ハウ・ツーもの」の視線。

2019-06-10 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)。
購入した本は、1973年1月第17刷発行とある。
その最後に自分の書き込みがしてあった。
「1990 4月20日読了。以前何も読みとれなかったことを感じる」。
この新書が背から二つに割れてしまって、もう読むのがめんどう。

このさい、あたらしい新書で。そう思って
購入したのが、2007年2月第77刷発行の新書。
なんとも同じ本を新しく購入するのは、新鮮。
今まで、線引きの箇所を確認して満足でした。
ごちゃと書き込みで読めなくなったノートを、
真新しくしたみたいになり気持ちがリセット。

きれいな新書に、落書きしてゆく楽しみ。
再度、今まで何を読んでいたのかと思う。

どうも、これは私がハウ・ツーものとして
読もう、読もうという姿勢があったためと、
読み手の一方的な思い込みに気づかされる。

ということで、「はじめに」の最後を引用。

「・・などとかんがえてもらっては、こまる。
研究のしかたや、勉強のコツがかいてある、
とおもわれてもこまる。そういうことは、
自分でかんがえてください。

この本の役わりは、議論のタネをまいて、
刺激剤を提供するだけである。
どのようなものであれ、
知的生産の技術には、王道はないだろうとおもう。
これさえしっていたら、
というような安直なものはないだろうとおもう。
合理主義に徹すればいい、などと、
かんたんにかんがえてもらいたくないものである。
技術という以上は、ある種の合理性はもちろん
かんがえなければなるまいが、知的活動のような、
人間存在の根底にかかわっているものの場合には、
いったいなにが合理的であるのか、
きめることがむつかしいだろう。
機械や事務組織なら、きわめて目的合理性の
たかいものをつくることもできるだろうが、
人間はそうはゆかない。

知的生産の技術について、いちばん
かんじんな点はなにかといえば、おそらくは、
それについて、いろいろとかんがえてみること、
そして、それを実行してみることだろう。
たえざる自己変革と自己訓練が必要なのである。」
(p20)

あれ、こんな箇所があったっけ?
と思いながらページをひらいてゆきます。
本は変わらないのに、加齢とともに、
浮ついた「ハウ・ツーもの」思考は消え、
変わったのは自分だったのだと思わせる、
そんな自分をのぞき込む鏡のような一冊。


コメント
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