和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大阪弁で書き。

2019-06-18 | 本棚並べ
新聞は見出しだけで、
すぐにテレビ欄を見る私です(笑)。

けれど、ときどき、残しておきたい記事がある。
産経新聞2019年6月17日の文化欄は「追悼田辺聖子さん」
とあります。中西進氏が追悼談を載せておられます。
ここでは、横山由紀子さんの文。

「・・作家、田辺聖子さんが6日、91歳で亡くなった。
大阪に生まれ、大阪弁で書き、『東京へは行かへん』と
関西に居を構え、宝塚歌劇の大ファン。大阪を愛し
続けた人生だった。・・・」
こう書き出しておられました。

そういえばと、本棚をさがす。
司馬遼太郎氏な亡くなった際に、追悼文を読もうと、
雑誌の特集がでると、買ったりしておりました。
それも一段落したなあと、思っていたら、
日本エッセイスト・クラブ編の
97年版ベスト・エッセイ集が出たのでした。
別に買う気もなかったのですが、
題して「司馬サンの大阪弁」(文藝春秋)とある。
ベスト・エッセイの中の一篇の題名なのでしょうが、
気になり注文したのでした。
けっきょくは、その一篇を読んで本棚へ(笑)。
あらてめて、それを出してくる。

その「司馬サンの大阪弁」というエッセイは
田辺聖子さんが書いておりました。
はじまりは、

「司馬サンがふだんは砕けた大阪弁を使われた、
というと、(えーっ)と若いひとたちはいう。
・・・エラい大作家は、気楽な大阪弁など使う
はずはない。という気が退(の)かぬようである。

私といえば、
昔から司馬サンの大阪弁に親昵しているために、
司馬サンのどんなご本を読んでも、その底音に、
やわらかな、品のいい大阪弁がひびいているような
気がしてならぬのである。・・」

こうはじまる8頁。
うん。結局、買っておいてよかったのかなあ(笑)。
こうして、再読して感銘をうけている。
本文は、このあとがメーンなのですが、
今回は、ここまで。

もどって、新聞の中西進氏(談)とある文は、
こうはじまります。

「なにわ言葉で庶民の生活感覚や心情を
巧みに描き続けた『おせいさん』こと
田辺聖子さんは・・・」

そして、談話の最後はこうでした。

「・・多くの人から愛され、人を魅き付ける存在だった。
かくいう私も、大阪樟蔭女子大から
『生徒を集めるアイデアを』というオファーを受けたとき、
『そりゃ、大先輩の田辺聖子さんを生かすことでしょう』
と答え、その結果として、開館から10年ほど
田辺聖子文学館館長を務めてきた。
なにわ言葉を愛し、生涯を関西で暮らし、
宝塚好きという愛すべき『おせいさん』の
ご冥福を心からお祈りする。」


この中西進氏が田辺聖子さんの2冊を紹介しておりました。
それも、引用して、いつかは読もう(読めなくてもね)。

中西さんがとりあげた一冊目は、

「たとえば『姥ざかり花の旅笠』は
江戸・天保期の仲良し4人組の50代女性たちが、
わいわいと伊勢や善行寺、そして日光へと旅をする。
とても面白おかしい小説だけれども、
単なる娯楽小説にとどまらず、江戸文化を背景に、
中年女性の生き生きとした姿を、ひとつの
ストーリーに乗せて新鮮に描いている。

二冊目は、

「川柳に生涯をかけた岸本水府とその盟友たちを描いた
『道頓堀の雨に別れて以来なり』も名作。
笑いの文芸である川柳はとくに大阪で人気があり、
田辺さん自身も深い造詣と愛情があった。
いや、そもそも川柳自体が田辺さん風と言ってもいいだろう。」

うん。この二冊。
たとえ、読めないとしても、
私の読みたいリストに入れておこう(笑)。


ああ、最後に「司馬サンの大阪弁」から、
この箇所も忘れずに引用しておかないとね
それは司馬さんの大阪弁を語る箇所にありました。

「その大阪弁も品よく(というのは、
どこの方言もそうだろうけど、ことに都市としての
歴史の古い大阪弁は、ガラが悪くなると
どんどん悪くなる、その段階の刻みが多い)・・」
(p153)




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88歳の梅棹忠夫。

2019-06-18 | 本棚並べ
「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ新書)。
「梅棹忠夫に挑む」(中央公論新社)。

この2冊を本棚から出してくる。
どちらも、年齢は、88歳の梅棹忠夫氏。

「梅棹忠夫語る」は、2010年9月発売。
はい。私は、新聞か雑誌の書評で知り、新刊で読みました。
内容はテンコ盛り、私は満腹感だけで、そのままに本棚へ。

今回、あらためて本棚からとりだす(笑)。
「梅棹忠夫語る」の最後は、
梅棹忠夫略年譜で、年譜の最後はというと、
「2010年(平成22)7月3日 老衰のため自宅で死去。」


さて、「梅棹忠夫に挑む」のまえがきは、
ご自身が書いております。そこから引用。

「・・わたしの米寿に際して、
わかい友人たちがおいわいの会をひらいてくださるという。
それを、パーティーなどで飲みくいの席におわらせては
ざんねんであるとおもい、わたし自身をまないたに乗せて
議論をしたらどうかと提案した。
その結果、2008年6月1日に、大阪千里でわたしの
米寿の記念シンポジウムというのがひらかれた。
・・・・
わたしも年とともに、体力のおとろえを自覚している。
つづいて、気力がそれ相応によわくなってきた。
ただ知力は、まだそこそこあるつもりだ。・・・
遠慮せずに、わかい諸君はこの老いぼれにつぎつぎと
いどみかかってほしい。これがいまのわたしの
心からのねがいである。・・・」


新書「梅棹忠夫語る」の「はじめに」は
小山修三氏が書いております。そこからも引用。

「・・若い頃から『月刊みんぱく』(国立民族学博物館
の広報)の編集長として、館長対談に同席して
鍛えられたのだが、館長時代はどうしても公的で
アカデミックな枠を出ない発言だったと思う。
館長職をひいてからは、館内の梅棹資料室で、
・・整理、執筆のほか・・ときおり訪ねてくる
ふるい友人との話・・・ところが2004年から
つづけて大病を患い、再起が危ぶまれるほどだった。

さいわい小康をえて、
2008年に『米寿を祝う会』を・・
やろうという計画がもちあがった。ただし、
体調に不安があるので、まえもって私が聞き取りをして、
梅棹さんが来られない場合は、それを読み上げるという
次善の策を考えた。そのために2008年2月から、
週一回の聞き書きを始め、回数は15回におよんだ。・・」


さて、こんな箇所も。

「梅棹さんは、第二次大戦後の日本のゆくえを見据え、
世論をリードしてきた人の一人だった。
そんな人の現役をひいたあとの自由闊達な話しぶりは、
たとえば勝海舟の『氷川清話』をはじめとする語録に
見られるように、痛快であるとともに、
時代の証言として重要なものだ。・・・」


小川氏の「あとがき」も引用しなきゃ。


「梅棹さんには23巻におよぶ著作集がある。しかし、
一般人にとってはあまりにも量がおおく、
分野が多岐にわたり、高価すぎる。
もっと手にとりやすい本で、現代日本人への
メッセージを語ってもらいたいと考えた。
・・・・」(p217)


「高価すぎる」、梅棹忠夫著作集全23巻は、
それから9年たち、古本で安く買えました。

購入した著作集を忘れるようなら、繰り返し、
痛快な語録の「梅棹忠夫語る」をひらきます。
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