小長谷有紀著
「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」の
最初の方に、京都の地蔵盆への言及がある。
「1989年の夏だったように思う。
当時、私は西陣の一角にある公団住宅に住んでいて、
アパートの管理人をしているお宅の子どもたちと一緒に
上京区のお地蔵さんを毎朝たずねあるいた。
・・・・・
私は学生時代、日本のように人間関係がからまりあうのは
うっとうしいと感じてモンゴルに留学したのだったが、
かの地ではモンゴルの良さを知ると同時に、
ひるがえって日本を再評価するようにもなった。
かつて短所だと感じていたことを長所だと思うようになっていた。
それぞれの良さが見えてきたとでも言っておこう。
狭いところに大勢が住む、そんな街の暮らしには、
きっとなにかしら協調のための文化的なしかけがあるにちがいない。
そんなふうに考えるようになり、
京都の地蔵盆を調べ始めたのだった。
・・・・・
江戸時代に創業した老舗は通りに面して店を構えている。
・・・・・
路地の奥には必ずと言っていいほど、
小さな地蔵たちが鎮座していた。
それらはたいてい大日如来さまで、
通りの地蔵たちがたいてい阿弥陀如来さまで
あるのとは異なっていた。
仏さまがちがうのだから、まつりの日程もややずれる。
大日如来は真言密教において最高位の仏である、という。
より大きな救いの力が路地コミュニティにこそ
必要なのかもしれない。・・・」
(p23~24)
そういえば、
松田道雄の本に地蔵盆にふれた箇所がある。
パラパラひらくと、とりあえず2冊あります。
「京の町かどから」は目次の3番目に「地蔵盆」とある。
そのはじまりは
「大文字がすむと京の町の地蔵当番は、いそがしくなる。
大文字というのは、8月16日の夜、東山三十六峰の一つの
如意ケ嶽の山腹に大きくほった大の字のザンゴウにマキを
たいてする送り火である。東山だけでなく、
北山にも西山にも・・・・送り火がたかれて盆の最終の
夜空をかざる。
けれども京の盆はこれでおわるのではない。
もう一つ地蔵盆がある。地蔵盆は子どもの祭典である。
・・・・
鐘をカンカンたたきながら、
『お供養どっせ、お供養どっせ』と
町内をふれてあるく。
そしてパン供養のときはパンを、
菓子供養のときは菓子を、くばってあるく。
子どもたちにとって、こんな祝福された日はない。
朝から晩まで大っぴらに遊べるし、
おやつはひっきりなしにもらえるし・・・・」
松田道雄の「花洛小景」にも
「地蔵盆」と題する文がはいっしているのでした。
こちらは、滝沢馬琴の文を引用してはじまっております。
その文を引用した後に、
「京の地蔵盆は昔から子どもを参加させていた
とかんがえてまちがいなかろう。・・・・
おとなにとっては重要な地蔵祭だが、
子どものことを忘れない。
子どもを忘れないということは、
昔の日本人のいい風習であった。・・・
この地蔵盆も、実際にはだんだんとやりにくくなってきた。
町のなかでは、子どもがへってしまった。
結婚したわかい夫婦が、その親と同居しないで、
町からでていってしまう。町のなかの人口は
だんだん老年のほうにずれていく。・・・
いちばんこまるのは、まる二日子どもに
サービスするために、仕事を休めるおとながへって
しまったことだ・・・
また、ふるい家がなくなり、かわってきた人が
ビルをたてて会社をつくったりする。
そういうところは地蔵盆とは関係ありませんという態度をとる。
近代産業が町にはいってくるほど地蔵さんは圧迫される。」
こちらは4頁ほどの短い文なのですが、
最後も引用。
「だが、子どもの意見はそうでない。
近所の小さい人にきいてみたら、こういう返事だ。
『地蔵盆待ってんね。
いつもおこらはるおっさんかて、
やさしゅうしてくれはるやろ。
一年にいっぺんだけでもそうしてほしいわ』」
最後の引用は、昭和44年8月に新聞掲載された文でした。
「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」の
最初の方に、京都の地蔵盆への言及がある。
「1989年の夏だったように思う。
当時、私は西陣の一角にある公団住宅に住んでいて、
アパートの管理人をしているお宅の子どもたちと一緒に
上京区のお地蔵さんを毎朝たずねあるいた。
・・・・・
私は学生時代、日本のように人間関係がからまりあうのは
うっとうしいと感じてモンゴルに留学したのだったが、
かの地ではモンゴルの良さを知ると同時に、
ひるがえって日本を再評価するようにもなった。
かつて短所だと感じていたことを長所だと思うようになっていた。
それぞれの良さが見えてきたとでも言っておこう。
狭いところに大勢が住む、そんな街の暮らしには、
きっとなにかしら協調のための文化的なしかけがあるにちがいない。
そんなふうに考えるようになり、
京都の地蔵盆を調べ始めたのだった。
・・・・・
江戸時代に創業した老舗は通りに面して店を構えている。
・・・・・
路地の奥には必ずと言っていいほど、
小さな地蔵たちが鎮座していた。
それらはたいてい大日如来さまで、
通りの地蔵たちがたいてい阿弥陀如来さまで
あるのとは異なっていた。
仏さまがちがうのだから、まつりの日程もややずれる。
大日如来は真言密教において最高位の仏である、という。
より大きな救いの力が路地コミュニティにこそ
必要なのかもしれない。・・・」
(p23~24)
そういえば、
松田道雄の本に地蔵盆にふれた箇所がある。
パラパラひらくと、とりあえず2冊あります。
「京の町かどから」は目次の3番目に「地蔵盆」とある。
そのはじまりは
「大文字がすむと京の町の地蔵当番は、いそがしくなる。
大文字というのは、8月16日の夜、東山三十六峰の一つの
如意ケ嶽の山腹に大きくほった大の字のザンゴウにマキを
たいてする送り火である。東山だけでなく、
北山にも西山にも・・・・送り火がたかれて盆の最終の
夜空をかざる。
けれども京の盆はこれでおわるのではない。
もう一つ地蔵盆がある。地蔵盆は子どもの祭典である。
・・・・
鐘をカンカンたたきながら、
『お供養どっせ、お供養どっせ』と
町内をふれてあるく。
そしてパン供養のときはパンを、
菓子供養のときは菓子を、くばってあるく。
子どもたちにとって、こんな祝福された日はない。
朝から晩まで大っぴらに遊べるし、
おやつはひっきりなしにもらえるし・・・・」
松田道雄の「花洛小景」にも
「地蔵盆」と題する文がはいっしているのでした。
こちらは、滝沢馬琴の文を引用してはじまっております。
その文を引用した後に、
「京の地蔵盆は昔から子どもを参加させていた
とかんがえてまちがいなかろう。・・・・
おとなにとっては重要な地蔵祭だが、
子どものことを忘れない。
子どもを忘れないということは、
昔の日本人のいい風習であった。・・・
この地蔵盆も、実際にはだんだんとやりにくくなってきた。
町のなかでは、子どもがへってしまった。
結婚したわかい夫婦が、その親と同居しないで、
町からでていってしまう。町のなかの人口は
だんだん老年のほうにずれていく。・・・
いちばんこまるのは、まる二日子どもに
サービスするために、仕事を休めるおとながへって
しまったことだ・・・
また、ふるい家がなくなり、かわってきた人が
ビルをたてて会社をつくったりする。
そういうところは地蔵盆とは関係ありませんという態度をとる。
近代産業が町にはいってくるほど地蔵さんは圧迫される。」
こちらは4頁ほどの短い文なのですが、
最後も引用。
「だが、子どもの意見はそうでない。
近所の小さい人にきいてみたら、こういう返事だ。
『地蔵盆待ってんね。
いつもおこらはるおっさんかて、
やさしゅうしてくれはるやろ。
一年にいっぺんだけでもそうしてほしいわ』」
最後の引用は、昭和44年8月に新聞掲載された文でした。