和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

東京と京都。京都と東京。

2019-06-24 | 本棚並べ
今日届いた古本に
梅棹忠夫著「日本探検」(講談社学術文庫)。

その解説は、原武史。
その解説のはじまりは、

「京都で生まれ育った梅棹忠夫は、
着任した大学や博物館を含めて、90年もの生涯の間、
全くと言ってよいほど関西の地を離れなかった。」

とこうはじまります。
すこしあとに、ご自身を語っておりました。

「東京に生まれ育ち、
東大大学院で政治学を専攻した私にとって、
学問とは何よりもまず専門的なテキストを読むことであった。
ゼミや研究会などで『わかりません』『知りません』と
発言することは、教授や他の院生から注がれる侮蔑的な
眼差しを覚悟しなければならなかった。・・・・
梅棹に代表される京大系の学問を、
東大の教授たちは明らかに一段低いものと見なしていた。

しかしいまになって・・・・
梅棹の著作をきちんと読んでこなかったことを後悔している。
その平仮名を多用する平易で明晰な文章にせよ、
世界に眼が開かれていながら片仮名や横文字を極力使わず、
権威ある学者の文章からの引用にも依存しない方法にせよ、
それでいてきわめてオリジナリティの高い仮説をごく自然に
提示してみせる発想力にせよ、もし東大時代にじっくりと
読んでいれば、視野狭窄になりがちな官学アカデミズムを
より相対化するのに、どれほど役立ったかわからないからだ。」

解説は、「京都で生まれ育った」と「東京に生まれ育ち」と
並べながら、はじまっているのでした。

さてっと、「ウメサオタダオと出あう
  文明学者・梅棹忠夫入門」(小学館)は、
追悼の「ウメサオタダオ展」で、来場された方が、
アンケートがてら書き残した『はっけんカード』を中心にして、
各ページを、それで埋めるようにして並んでいる本でした。
そこから(44歳男)の方の文を引用。

「44歳。焼鳥屋のおやじです。
知的生産の技術を読んで以来、
梅棹ファンで、著作集22巻すべて読みました。
こんな焼鳥屋のおやじでも読める文章を
書ける学者はいません!
今回私のほとんど知りえなかった
写真や原資料はたいへんおもしろく見てまわりました。
梅棹さん、絵がうまい!
あれだけ描けたらおもしろいだろうなあ。
・・・・」(p135)

ハハハハハ。
還暦すぎてから、
梅棹忠夫著作集(全)を、古本で掛け声かけてからでないと
買えないような自分が、いかにも、もったいぶったことでも
しているようなそんな気がしてきました(笑)。


そうえいばと、思い浮かんだ新聞のコラムがある。
産経新聞2019年6月22日「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」。


「・・にしても、このところ週刊誌がつまらない。
部数トップの『週刊文春』からして大人の視点を欠き、
読むべき記事が少ない。今週号(6月27日号)の左柱は
またもや『小室圭さんが眞子さまに打ち明けた「隠し録音」』
・・・単なる匿名の証言。・・記事にするまでもあるまい。」

うん。そんな週刊誌事情を調べたあとに
最後にこうありました。

「『ニューズウィーク日本版』(6・25)の特集は
『弾圧中国の限界』。香港200万人デモを報じている。
『文春』もこういうテーマを取り上げなくては。」


うん。視野狭窄の官学アカデミズムを卒業した方が、
各週刊誌のトップをしているかのように思えてくる。
それより、「世界に眼がひらかれて」いる週刊誌を。


もどって、
原武史氏の解説の最後も引用しておきます。

「梅棹によれば、
『日本という国は、二重構造がすきな国である』。
具体的には、アマテラスとオオクニヌシ、
天皇と出雲国造、伊勢と出雲、東京と京都
といった関係があげられるだろう。
けれども両者は非対称の関係にあり、
梅棹は常に後者から前者を、
さらに日本全体を見ていたところがある。
『日本探検』が、今日なお類例のない文明論
としての輝きを失わない所以である。」


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あっぱれなひらめき。

2019-06-24 | 本棚並べ
昨日は、寝床でひらいていたのは、
「ウメサオタダオと出あう」(小学館)。
帯には、梅棹さんの斜め横顔の写真、
それに、「特別展で出あったみんなのカードから
梅棹思想の魅力を再発見」と書かれています。

梅棹忠夫の没後、大阪の国立民族学博物館で開催された
ウメサオタダオ展のアンケート『はっけんカード』を
たたき台にして、小長谷有紀さんが書いております。

1つ引用するとしたら、私は、ここかなあ。

17歳女性の『はっけんカード』。

「今はなんでもパソコンやケータイに思いついたことを
書き留められる反面、データをボタン1つで一気に削除
することができるようになってしまった。文と文の間に、
後から思いついたことを挿入できるようにもなった。
けれどそうではなくて、『考え』はその時々まとめて、
後で思いついたことはそれだけでまとめておく方が、
後で振り返ったときにその時々の自分と向き会える。
そして紙に残しておけば一生消えない」

これを引用した小長谷さんは、後にコメントして、

「何でも書きとめていた証拠が残されている展示を見て、
現代がデジタル機器に依存していることを指摘する人は多い。
しかし、その先の、ボタン1つで削除されることや、
容易に改変できてしまうことについて、
哲学的に思案をめぐらしている人はきわめて少ない。
あっぱれなひらめきであるとわたしは思う。」
(p81~82)

寝床で、この本をひらいていたら、
そのまま、寝っちゃうのでした(笑)。
朝起きたら、気になっていた
この箇所が浮んでくる。

順をおって引用。
「まえがき」は、こうはじまります。

「『知的巨人』や『知のデパート』と称せられた
梅棹忠夫が、2010年7月3日に亡くなった。本書は、
没後に大阪の国立民族学博物館で開催された
ウメサオタダオ展で、人びとがどのように
彼と出あったかという記録である。」(p2)

「・・太陽の塔がそびえる万博公園で、
国立民俗博物館主催のウメサオタダオ展を
2010年3月10日から開催した。

開幕翌日、宮城県沖で大地震が発生した。
未曽有の放射能被災を含む、
東日本大震災に見舞われ、
展示を企画した一人としてわたしは、
そもそも混迷の時代にこそ梅棹忠夫を読み解く
必要性を強く感じていたから、
こうした艱難辛苦の時に至ってなおのこと、
より多くの人びとにウメサオタダオと
出あってもらいたいと望んだ。」(p4)

は~。「ウメサオタダオ展」開催の翌日に、
東日本大震災があったのでしたか。知らなかった。

それはそれとして、朝起きて気になったのは、
日付でした。この「まえがき」には、
2010年7月3日に梅棹忠夫氏が亡くなり、
没後開催した「ウメサオタダオ展」は、
2010年3月10日に開催したと書いてある。
あきらかに、2010年は2011年の誤りで、
本のp8には展示会の看板も写真入りで
はいっている。その展示看板は、読める
「特別展ウメサオタダオ展
 2011年3月10日(木)~6月14日(火)」
とある。

う~ん。
デジタル機器ならば、こういう記入ミスは、
間違いを正すということで、
すぐに訂正して削除・改変できてしまう。

ところが、本では、そうはいかない。そういう、
本のふところの奥行きを感じさせる一冊です(笑)。
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