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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

放胆・小心文。

2009-12-15 | 古典
外山滋比古著「文章を書くこころ」に、「放胆文を書く」と題した文が入っておりました。
昔の中国の科挙。その受験参考書としてあった『文章軌範』から説明をはじめております。
「およそ文を学ぶは、初めは胆の大なるを要し、終りは心の小なるを要す。」以下を引用しておりました。外山滋比古氏は、そこを訳しております。
「はじめは、あまり小さなことに心をわずらわすことなく、思い切って、大胆に書けというすすめである。大まかなところを書いて、それができてはじめて、こまかいところに心を用いよ。書きやすいところから入って行けば、のびのびして、言いたいことが言いやすい、というのである。そういう書き方に習熟すれば、文章なんかなんでもなくなり、筆が萎縮する心配もないものだと教えている。」

そういえば、芳賀矢一・杉谷代水編「作文講話及び文範」(講談社学術文庫)でも、それに触れていた箇所があるのを思い出します。
第十二講「作文の実習」
「・・・これからは実習が肝要である。作文の実習要訣として昔から説かれているのは多読、多作、多思の三つ。東西とも変わりはない。・・・・人の文をいくらたくさん読んでも自分で書き慣れなければ、いわゆる『感心上手の行い下手』で仕方がない。さればできるだけ勉強し、あらゆる文題を捉えて片っ端から書いてみるがよろしい。書き慣れさえすれば必ず達者になられるのである。
・・・多作は筆を達者にするためである。体操をして身体を鍛えるのと同一の意味である。・・終わりに多作についての注意を挙げたい。文章は何でもたくさん作ってたくさん直すがよいのであるが、たくさん作るについても作りようがある。古人は初めは放胆(ほうたん)文を盛んに書けと教えている。放胆とは大胆のことである。始めの間は何でも構わず思ったとおり自由に大胆に書いてみるがよいのである。・・・
また、放胆文を書く間には添削はごく大きなところだけにして細かい箇所はそのままうっちゃっておいてもよい。読み返してみて面白くない所は惜しまず消して書き直す。あるいは段取りを改めて全部作り直すというように添削の斧も大きなのを用いる。小刀細工をしてはならぬ。さて、放胆文を書き習って筆が相応に伸びたら、今度はそろそろと小心文の修業に入る。小心文とは心を十分綿密に用いて微小の箇所にまで気をつけ念を入れた文章のことである。・・・・小心文の修業は限りがないが、ここに大いに注意すべきことがある。小心文をつくるの域まで進むと、文章上の卒業もしくは卒業前であるによって、相応の知識も眼識も経験もでき、細かな個所まで巧拙の解るところから、不知不識小心の習慣に囚えられてしまう人が多い。こういう人の書く文章は全体にどこといって指すほどの瑕(きず)もなく、ことに局部には綿密な注意がとどいて名句佳句も多いが、さてどことなく生気が乏しく、印象がない。文章をあまりに格に入れ過ぎた結果である。されば小心文を学びながらも、折々は放胆文も書き慣って気力を養うが肝要である。放胆は文の度胸、小心は文のたしなみである、放胆ばかりで小心の無い文章は度胸ばかりで礼節のない粗大な人物のごとく、また、小心が勝って放胆のない文章は目前の瑣事に囚えられて一生を営々碌々として暮す小才子(こざいし)のごときものである。
放胆文小心文の名称は謝畳山(しゃじょうざん)の『文章軌範』以来作文家の修行順序を示すものとなっているが、名家の文章をよく読んでみると、必ず放胆の中に小心なところがあり、また小心な間に放胆なところがあって、分量こそ差(ちが)え、いつでも二分子を含んでいる。・・・」

う~ん。私には「いわゆる『感心上手の行い下手』で仕方がない。」というのがドキッ。
そのあとのおまじない。
「さればできるだけ勉強し、あらゆる文題を捉えて片っ端から書いてみるがよろしい。書き慣れさえすれば必ず達者になられるのである。」というのを、忘れずにお守り言葉にする。

そうそう。外山滋比古氏の文の最後はですね。

「とにかく書いてみよ、というのではいかにも無責任に聞えるかもしれないが、放胆文は七百年昔の中国ですでに推奨されていた方法である。やはり、のびのびと、とにかく、書いてみることだ。」と書いておりました。
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書簡文講話。

2009-12-14 | 手紙
外山滋比古の「ことばの教養」「文章を書くこころ」とパラパラめくっていたら、書簡についての興味がわきました。

話はかわりますが、以前読んだ本を破棄したりして、本棚にはこれから読みたい本をならべていたことがありました。まあ、今も一度読んだ本というのは、塵をかぶって読まずにいるわけで、そのままに打ち捨ててあるのと同様な感じではあります。
ただ、やっぱりもう一度読みたいという本は、本棚に置くようにはしております。

さて、書簡文ということで、思い浮かぶあれこれ。
清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)に

「文章のイロハを学びたいという方は、いろいろなチャンスを利用して、精々、手紙を書いた方がよいと思います。電話で用が足りる場合でも、手紙を書くべきでしょう。面倒だ、というのですか。いや、本当に面倒なもので、私にしても、毎月の原稿が一通り済んでから、まるまる一日を使って、何通かの手紙を書くことにしています。原稿料とは関係ありませんが、実際、手紙を書くのは一仕事です。しかし、それも面倒だ、というようでは、文章の修業など出来たものではありません。」(p68)

ところで、手紙ということで、何を読んだらよいか?

向井敏著「本のなかの本」に、中野重治著「本とつきあう法」を紹介した見開き二ページの文が入っております。そこで向井氏は、中野重治が芳賀矢一・杉谷代水著「作文講話及文範」、「書簡文講話及文範」という二冊に触れた章をとりあげているのでした。

「文章と手紙の書き方を説いたこの古い二冊の本のために、中野重治はその美質を簡潔的確に評したうえ、書評史上まれに見るすばらしい言葉を捧げた。その頌辞に親しく接するだけのためにも、この本はひもとくに値する。いわく、
  『ああ、学問と経験とのある人が、
材料を豊富にあつめ、手間をかけて、
実用ということで心から親切に書いてくれた
通俗本というものは何といいものだろう。』            」


ここまでくれば、中野重治著「本とつきあう法」の、その箇所を読みたくなるじゃありませんか。そこで重治は


「芳賀とか杉谷とかいう人がどんな人か知らぬ人でも、二冊のうちどつちか一冊を読めば、二人の学者がどれほど実地ということを腹において、少しでもヨリよくということを目安にして、善意をかたむけてこの本をつくつたかが流れこむように心に受け取られてくる。四十年ぐらいまえに書かれているから古いといえば古い。とはいつても、日本語・日本文がそれほど変つたわけではない。またこういつたものは、ある意味では古いものがいいためにこの本がいいのだ。・・・・『作文』の方は千三百ページほど、『書簡文』の方は千ページほどあり、それぞれ七百ページ、六百五十ページほどが『文範』つまり実例になつていてこれがおもしろい。・・・・」

  ちなみに、この文の発表は1953年とあります。
  そして、向井敏が引用した最後の箇所をもう少し丁寧に引用しておきます。

「ああ、学問と経験とのある人が、材料を豊富にあつめ、手間をかけて、実用ということで心から親切に書いてくれた通俗の本というものは何といいものだろう。僕はこれを刑務所の官本で楽しんで読み、出てから古本屋で見つけて今に愛蔵している。僕の待つているのは縮刷版だ。発行は冨山房だ。」



そうして、私は「作文講話及文範」「書簡文講話及文範」を古本で購入してあったわけです。
ちなみに「作文講話及文範」は、一時文庫に入っておりました。私といったら、そのどちらも中野重治が感銘した「文範」としての実例を読まずに、そそくさと、講話を速読して本棚にしまいこんでおりました。いつか読もうとおもいながら、もう古本の上に、塵が積もっております。

と、もう一度、この二冊にチャレンジのつもりで、書き込んでおります。いつも途中で挫折する。せめて、本棚から取り出して再読の始まりだけは記しておきたいじゃありませんか。まあ、そんな感じの埃をはらいながらの書き込みです。
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物ほしげ。

2009-12-13 | 短文紹介
桑原武夫集(岩波書店)の10巻目には、
「推薦文」が載っております。そこに加藤秀俊氏への推薦文があります。
それは、加藤秀俊著作集への推薦文(1980年)でした。
では、その最初の箇所。

「加藤秀俊は近代化日本を代表する思想家である。
そういわれてけげんな思いをするのは、軽薄な近代化批判の風潮にのせられているのであって、言うまでもなく私は加藤を高評価しようとしているのだ。近代化の成功なくして今日のわれわれの幸福な生活のありえなかったことは、加藤とともに、私の確認するところである。もちろん日本の近代化にも弱点はあるが、世界的にすばらしい点も少なくない。そのプラス面をもっとも見事に象徴しているのが加藤だといえる。
まず彼はたぐいなく勤勉である。しかもその勤勉は受身でなく主体的にして誠実である。人々の学説を鈍重に積みかさねるのではなく、つねに自分の目と足とで現地に現物を確かめてから聡明に料理する。
勤勉の当然の帰結として彼は良質多産である。十二巻の著作集が彼が書いたものの半ばしか収めえていないというのは驚くべきエネルギーというのほかはないが、その収録作品目次を眺めてさらに驚くことがある。それは表題に一つとして物ほしげな文学的なものがなく、すべて短く具体的なことである。彼の学問に甘さの情緒性がなく、取扱う対象は多方面にわたりながら、すべて澄明な意志によって統合されていることのあらわれといえる。・・・・」(p463~464)

あっ、もう推薦文の三分の二も引用してしまった。
これくらいにしておこう。
加藤秀俊著「メディアの発生」を読むとですね。
あらためて、この推薦文を思い出したりするのでした。
たとえば、「つねに自分の目と足とで現地に現物を確かめてから聡明に料理する。」という箇所など、そのままに「メディアの発生」にあてはめたくなります。
このそっけない題「メディアの発生」にしても桑原氏の推薦文を思い浮かべてしまいました。「表題に一つとして物ほしげな文学的なものがなく、すべて短く具体的なことである。彼の学問に甘さの情緒性がなく、取扱う対象は多方面にわたりながら、すべて澄明な意志によって統合されている」。

う~ん。あとは「メディアの発生」を再度読み直してみるだけなのですが(笑)。

そうそう。今日の毎日新聞の日曜日読書欄が、今年の3冊を特集しておりました。
「メディアの発生」は、どなたも取り上げていない。ふ~ん。そうなんだ。
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猫と寅彦。

2009-12-12 | 短文紹介
古本の森田草平著「夏目漱石」を読むともなく開いてみたら、寺田寅彦の箇所があります。「漱石と寺田博士」。そこで、はじめて寺田寅彦を意識した場面が回想されておりました。

「私はその年の七月大学を出たばかりのほやほやの文学士である。勿論就職もしていないし、又そんな望みも薄かった。しかし漱石先生の宅を訪問したのは就職の依頼ではない、ただ無駄話に出掛けたのである。その時先着の客に寺田さんがあった。私は先生と寺田さんの話を傍聴しながら、ただまじまじと二人の容子を眺めていたらしい。その時どんな話が出たかは一つも覚えていないから、先ず聴いていたよりは、見ていた方が主であったと思われる。これは先輩、長者の席に後輩もしくは田舎漢が列なった場合にあり勝ちのことだから、なにも私一人に限ったことではない。何でも寺田さんはその時例によって白いリンネルの、それも幾度か水をくぐったらしい皺苦茶の洋服を着ていられたように思うが、その後も終始そういう服を着ていられたから、これは後からくっつけた連想かも知れない。・・・・
『吾輩は猫である』の第一冊が出た頃で、玉擦りの寒月は寺田さんだという評判が立っていた。・・・」


この箇所を眺めていたら、そうだ、『吾輩は猫である』というのは、寺田寅彦を中心にして読まれるべき物語じゃないのか?と思ったのでした。もうどなたかの、それに関する本があるかもしれない。そういうのがあれば読んでみたいし。なければ、それを頭において読み直してみたい。それほどに、この物語は、読後に寒月さんだけが印象として残る。漱石は寅彦へむけて、この本を書いていたのじゃないかと思わせる。あるいは無意識に寅彦が漱石の頭を占領していたのじゃないか。と思ってみるのでした。またそういう観点から注意して読み直してみたい。と思うだけのこの頃でした。
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添え書き。

2009-12-11 | 手紙
「思考の整理学」が、卒業論文をあつかっていたように、
「ことばの教養」は、手紙をテーマとしているように読めます。
さてっと、私事なのですが、
祝賀会の取りまとめ役を縁あってひきうけました。はじめての経験。
まずは、出欠席の葉書きを送付。この12月12日にその会がある。
こういう出欠の葉書きは、私はまず、すぐに返事を出したことはありませんでした。ところが、いざ私が取りまとめ役となる段になると、これがいやはや(笑)。
ハガキを送付して、まっさきに返事が来る人がいる。それからしばらくしてだんだんと返信はがきが来るわけです。そして期限が過ぎても、梨のつぶての方が数人。

ちょっと引用箇所を探し出せないでいるのですが、
外山滋比古氏の文に、子供の結婚式か何かの出欠席の返事を、すぐに出して、相手の親に喜ばれた話を書いておりました。相手側にしてみると、出したが出席してくれるかどうか不安がある。まっさきに返事が来たので嬉しかった。というようなやりとりがあったそうです。

さて、そういう外山氏の手紙・葉書きに関する文なので、
思わず襟を正して読んでしまいます。たとえば、
「印刷だけの賀状と添え書きのあるものと、もらってどちらがうれしいかわからないような人は心が荒れている。」(p69「ことばの教養」)という箇所がある。ちょっと引っかかる。自分はプリントしたのを、そのままに送っていたことを普通のことと思っていたのだから、何か不思議な感じがする。そういえば、もらった年賀葉書きに、かならず手書きの数行を書いておられた方が思い浮かぶ。
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坂東三十三観音。

2009-12-10 | 安房
岩波少年文庫に、杉浦明平の「今昔ものがたり」があります。
杉浦氏は、その文庫の最初を「悪人往生」という物語からはじめておりました。
ちょっと、他の少年少女用の本「今昔ものがたり」では、それがみあたらない。
どうして杉浦氏は、この物語を最初にもってきたのか。
杉浦氏はあとがきで、「この本の始めの五篇は、本朝仏法部から撰り出した作品です。中でも巻頭の一篇【悪人往生】は胸のすかっとするほど気持ちがよいとは思いませんか。・・」とあります。これが今昔物語のどれなのか、わからないでいたのですが、現代教養文庫の西尾光一著「今昔物語 ― 若い人への古典案内」をなにげなく開いたらありました。テーマ別の「出家の機縁」というところに入っていました。巻十九の第十四話「讃岐の源太夫の出家」。題は「悪人往生」とは違っておりました。それで題名だけからでは見つけられなかったのだとガテン。それは香川県の豪族・源太夫という生まれつき荒っぽくて、「殺生をこのうえなく愛好し、村のならずものを手下にして、朝から晩まで山野を駆けまわっては、鹿や鳥を打ち殺し・・・親兄弟や夫がさからえば、鹿や猪と同じように、あっさり射殺したり、首を斬って平気だった。少しきげんがよいときは、手や足をへし折るか、片耳をそぎ落とす・・・」

その源太夫が、ある時、お堂の坊さんの話を聞く、なんでも講師の僧は
「ここからはるか西の世界に、阿弥陀仏というみ仏がおいでになります。このみ仏は、み心がひろく、長年罪悪をかさねた人でも、反省して『南無阿弥陀仏』といっぺん唱えれば、必ずその人を許して、すばらしい極楽に生まれかわらせて、最後にはみ仏のひとりに加えてくださいます」と語る。
ここから、僧と源太夫のやりとりになり、その場で頭を剃り、すぐに出家をする。
それから、「おれはこれから西に向かって阿弥陀仏をお呼びし、金鼓(こんぐ)をたたいて、み仏のお答えが聞こえるところまでゆこうと思う。お答えがないかぎり、野山だろうが海川だろうがぜったいに引き返すまい。ひたすら向かった方向へ進んでゆくぞ」と語って、あとはその通り西へとまっすぐに行くのでした。この道行きがスカッと描かれているのでした。それは省略。

なぜこの個所を思い出したのかといいますと、
加藤秀俊著「メディアの発生」に補陀落渡海のことが出て来るからなのでした。
ということで「メディアの発生」から、そうたとえば『足摺』の個所

「『足摺』といえば四国の足摺岬を連想する。ずいぶんむかしのことになるが、わたしはこの足摺岬まででかけたことがある。ここには四国八十八ヵ所三十八番札所の金剛福寺というのがあるが、注意してみると、ここに『補陀落東門』という勅額がかかっていることに気がつく。つまり、四国最南端の足摺岬も補陀落渡海の聖地だったのである。例の『とはずがたり』によると、ここはむかし住職とふたりのがいたが、ゆえあってはともにここから小舟に乗って補陀落渡海をしてしまった。それを惜しんで老僧が岬の突端で『足摺』したのがその地名の由来だという。・・・
田宮虎彦の小説『足摺岬』の主題も入水自殺への願望をもった青年がその主人公だった。そこでめぐりあうのは戊辰戦争で生き残った老人、そして第二次大戦で生き残った若者・・・いずれも死に直面した経験を共有している。主人公はこうした人物と出会いながら生と死のはざまをかんがえるのである。おそらく、ここから補陀落渡海を実行した僧侶や遍路もすくなくなかったのであろう。いまも足摺岬灯台の立つ断崖は自殺の名所になっているようだ。すぐ目のまえに『死』があり、思いとどまれば『生』がある。そこでのためらいが『足摺』なのである。俊寛は結局、断食往生の道をえらんだが、それも『足摺』の葛藤あってのこと。」(p321~322)


そして、

「鎌倉武士にゆかりのある坂東三十三観音はまず鎌倉の杉本寺にはじまり、神奈川県下を一巡し、埼玉県を経由して東京にはいる。浅草の観音さまは十三番の札所である。巡礼はそこから群馬、栃木、茨城、千葉と関東平野を時計まわりに一巡してさいごの三十三番は千葉県館山の補陀洛山那古寺。なるほど、補陀落はここ房総半島にもあったのである。」(p467)

ちなみに、房総の那古寺の下は、元禄地震や関東大震災によって、二度も隆起しており、住宅地の先のほうに海がありまして、補陀洛山の下が砂浜で、波が打ち寄せる、というおもかげは今はありません。もっとも、そこから沈んでゆく夕日をながめるのはよいだろうなあと思います。
そして、地震について調べると、元禄のころの地震で那古寺がくずれ、その再建のために江戸の浅草で那古観音のご開帳をして資金を捻出したという記録がある。なるほど、坂東三十三観音のつながりがツテとなっていたのですね。浅草でご開帳の間に立った人が一銭も貰わなかったそうです。合点しました。
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楽しみは。

2009-12-09 | 手紙
外山滋比古著「ことばの教養」(中公文庫)を読みました。
私は、まだ年賀はがきを書いていないのですが、
手紙・ハガキについてもふんだんに登場します。
う~ん。ここでは「楽しみは」の列挙。

「一日の仕事が終って、寝る前のひととき、さて今夜は寝ながら何を読もうかと思いをめぐらすのは、下戸にとって左党の寝酒にもまさる楽しみである。」(p135)

「一日でもっとも楽しいのは郵便のくるときだ・・」(p79)

「午前中うちにいる日は、いつも郵便のくるのを心待ちにしている。玄関に近いところに書斎がある。郵便受でカサッという音がすればもちろんわかる。配達さんの自転車のきしむ音だけで、きたッ、と思う。すぐ飛び出す。」(p57~58)

「手紙で人とつき合うコツは、こまめに返事を書くことにつきる。こまめ、というのは、すぐということである。【あとで】は結局、【失礼する】ことになる。」(p61~62)


「辞書のおもしろさは、わかり切っていると思っていることばの項をていねいに読むことにある。そこをのみこまないと辞書とは仲良しになれない。昔、中学生のとき、何だか忘れたが、ひどくおもしろくないことがあって、毎日くさくさしていた。勉強も頭に入らない。しかたがないから英和辞典を開いてぼんやりながめていると気がまぎれる。これはいい。・・・」(p147)

「われわれのような凡人は、時々虚栄心をくすぐり、ひょっとすると自分も相当なものかもしれないという錯覚に陥らせてくれる人間がいてくれないと、せっかくの読書の楽しみも薄くなるのである。・・・」(p163~164)


「やはり、おもしろくなくてはいけない。おもしろいというのは、おもしろおかしいのと同じではない。いまの世の中には本当におもしろい本にめぐり合うことは昔に比べて本が多くなっているだけに困難である。真の良書、かけ値なしにおもしろい本はどれかということをいまほど問われている時代はないと言ってよい。」(p191)

「欲を言えば、ほめてくれる人が身近にあるといい。
ある老詩人が、自分を育ててくれたのは、ほめられたことばであると告白している。料理の腕を上げるのにもほめ上手がいなくてはいけないが、文章を書く苦労を吹き飛ばしてくれるのは、【おもしろかった】という知友のひとことである。われわれはお互い、もっとほめ上手になりたい。」(p202~203)


「郵便が来たときの何とも言えない気持をほかの人に贈るのだと考えて手紙を書くくせをつける。」(p227)

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講義録。

2009-12-08 | 短文紹介
森銑三・柴田宵曲著「書物」(岩波文庫)に、忘れられない箇所があります。
ちなみに、この本は昭和19年に書かれ、昭和23年に16篇が新たに書き加えられたそうです。ここで中学とあるのは旧制中学のこと。では、引用。

「なおここで私は、家庭の事情その他に依って、中等学校へ進み得ないでいる青年たちの読書のことを考えて見たい。今後も中等教育も受けていない青年たちは、社会へ出てからますます肩身の狭い思いをしなくてはならぬことかと思うが、中学の四、五年間に習う教科書を積んでみても高が知れている。少し読解力のある少年なら、語学や数学くらいを除いたら、その教科書を通読することに依って、中等教育の大体に通じて、中学卒業生に近い学力を自ら修めるのも、必ずしも不可能事とせぬであろう。しからば国家的にも優秀な講義録の類を発行して、それらの恵まれざる少年に自修の便宜を与えることなども考慮せらるべきではなかろうか。」

ここに優秀な講義録とある。もう少し続けて引用。

「そして国民学校の上級において、辞書類の利用法などをも教え、多少は自習の方法等においても指導を与うべきであろう。そして文部省あたりで、引きやすい漢字典、国語辞典などをも編纂して学童に与え、それに依って虎の巻などという安価な参考書を駆逐すべきではあるまいか。そしてまた小学校などにおいては、あまり学習科目を多岐にわたらしめずに、まず第一に読解力の養成に努めしめて、卒業後各自が自発的に自己を養って行かれるだけの基礎を作らしむべきである。しからずしては国民教育は意味をなさぬであろうと思う。」(p120)


さて、現代。
12月7日の産経新聞に別刷りで、大学生に関する特集が載っておりました。
「4年制進学率が50%を突破」とあります。
「文部科学省の平成21年度学校基本調査(速報)によれば、今年4月、4年制大学への進学率が50.2%に達し、初めて18歳人口(121万人)の半数を超えた。実際の入学者数は60万8700人(国立10万1800人、公立2万8400人、私立47万8500人)。・・一方、今年4月の短期大学への進学率は6.0%で前年より0.3ポイント低下。短大人気の低下には依然歯止めがかからない。・・・」

この大学のついては、webサイト「iza(イザ)」でも閲覧できるそうです。

http://www.sankei.co.jp/ad/daigaku-tokusyu/


う~ん。問題は大学というより、むしろ、大学を出てから。
というところに設定してみると、大学へ入ることは、何か先送りの感がじわじわと滲んでくるようでもあります。


読売新聞11月23日の一面「地球を読む」で山崎正和氏が書いております。
そのはじまりは、

「この夏、7月8日の読売新聞が、大学入試に関する気がかりなニュースを伝えていた。学力を問う筆記試験に合格する新入生の数が減り、各種の推薦制や面接中心の「AO」試験で入学する学生が増えているという。大学の学力水準を維持するには、一般入試の合格者が最低で30%は必要だとされるのに、私学では3割強がこの水準に達しておらず、なかには1%台の大学もある。ほとんどの学長が、新入生の基礎学力の不足を感じていて、入学後に到達度試験を実施し、習熟度別のクラス編成をする大学が、国公私立の全体で80%を超えたというのである。これは寒心に堪えない事態だが、かつて大学教師をしていた私の実感を裏付ける数字ではある。一部の私立大学では、工学部の入学者で分数の足し算ができず、文科系で常用漢字の書けない学生がいるという実話を耳にしたこともある。・・これでは義務教育の完了さえ果たされていないというほかない。・・・」




え~と。話がどんどんとそれていってしまいます。
講義録ということでした。
実業之日本社に「最終講義」という本があります。古本で買いました。じつはこの「最終講義」に加藤秀俊氏のものが含まれているので、開いてみたというわけです。それとは別に、興味は大学の授業へといきました。
解説を坪内祐三氏が書いております。それを引用。

「その昔、五月病という言葉があった。・・・先生の講義は十年一日のごとく使い古したノートの繰り返し。・・・私が大学に入った、今からおよそに二十年前、1978年は、その五月病という言葉がほぼ消えかかろうとする頃である。・・・・現実の講義はつまらないものばかりだった。・・・大学時代の私は、不思議なことに、つまらない講義が行われている、教室の中でこそ、一番、猛然と、読書の意欲がわいたものだった。それが私にとっての、まぼろしの、素敵な講義だった。そうやって受講(乱読)した講義(本)の中でも印象的なものに林達夫の『共産主義的人間』(中公文庫)がある。『共産主義的人間』が印象的だったのは、そこに、大学論の名篇『十字路に立つ大学』が収められていたからかもしれない。私は今でも、林達夫のような博学に秘かな憧れを持ちながら『共産主義的人間』を読み進め、『十字路に立つ大学』に出会った時の、五月終りの、金曜午後いちの、早稲田大学文学部百五十番教室、一般教養『哲学C』の授業風景を忘れはしない。マルティン・ブーバーの『我と汝の哲学』を自己流にアレンジした、出会いの哲学について語る教授Tのつまらない熱弁は、私の耳に、少しも入ってこない。『困った教授、困った大学生』というサブタイトルを持つ『十字路に立つ大学』は、こういう一文で書き始められていた。【大学の教師で一番滑稽なことの一つは、性懲りもなく四月の学期始めになると学生のことごとくが本格的な知識的熱意に燃え学問の蘊奥を極めようとして教室に集ってくるという錯覚に陥ることである。ここで、大事な学生を差し措いて教師のことをさきにいうのは、教師は常に学生に接しているが、学生は大学をいわば通過するだけだから、大学を永続的な設備たらしめている生きた要素としての教師を先ずは槍玉に挙げるのが礼儀だと思ったからである】こうして語られる林達夫の大学論は極めて刺激的だった。学問に必要なのは本来アマチュア精神であるはずなのに、大学はアカデミック・マインドばかりが大手をふっていると彼は言う。・・・・」

ところで、私は「最終講義」に加藤秀俊の講義が載っているというので読んでみたのでした。最後は、そこから引用しなきゃ。


「一般的に申しまして、今の若い人は字がたいへんへたです。文章もへたですけども、字はさらにへたです。これが字かね、といいたくなるような字しか書かない。ふだんはワープロで打った文書や論文をみせてくれますからあまり気になりませんが、肉筆の字をみると幻滅を感じますね。ひょっとすると中学卒業以来、ぜんぜん筆をもったことがないんじゃないかとおもようなひどい字の人がたくさんいます。しかし、おもしろいことに、かれらはそのかわり、コンピューターのプリンターを選ぶときにはやかましいのであります。わたしは、それらの文書処理機械についてはつねに若い人たちから教えてもらっているのですけれども、フォントがどうだとか、機械が打ちだす書体やスタイルについての知識はおどろくほど深いのであります。プリンターはこれがいいとか、あれはダメだとか、おっしゃるわけですけども、かんがえてみますと、あれは、現代の書道の流派えらびなのかもしれません。わたしにいわせれば、単純なドット・プリンターであっても書かれた内容がしっかりしていればそれでよいはずなのですけれども、若い人たちはレーザー・プリンターがどうのとおっしゃる。やっぱり仕上げがきれいな字であるほうがよろしい。それにくわえて、メーカーのほうも、やれ全角だ、半角だ、飾り文字だ、というふうにあれこれの書体を一台のワープロやプリンターに搭載することを競っていますから、いまや一億ことごとくがレイアウトマン、さらにはグラフィック・デザイナーになっているようなところもないではありません。とするなら、いわゆる【活字時代】なるものも、いささかあやしげであります。」(p535~536)

ちなみに加藤秀俊氏の最終講義は「視聴覚文化時代の展望」(1990年5月)という題なのでした。
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整理哲学?

2009-12-07 | 短文紹介
今日12月7日の産経新聞コラム「正論」は、新保祐司氏。
題「日本人の精神再建する歴史哲学」。
何でも、12月8日は真珠湾攻撃の日だったのでした。
そこで、新保氏は加藤陽子著「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」を取り上げております。ちなみに、私は加藤氏のこの本読んでません。
そこに、「しかし、私が最も知りたかったのは、『勝ち目のない戦争』と分かっていたのに、『それでも』、なぜ、日本人は戦争を選んだのかについての精神史的理由であったが、その点はあまり伝わってこなかた。」と新保氏。
その点について、加藤陽子氏の文意を取り上げております。
「日本が短期決戦の方針で開戦に踏みきったことについて、著者は『そのあたりを考えていくと、哲学的問題にまでなります』と書いている。歴史学は、『哲学的問題』の手前の実証でとどまるべきかもしれないが、日本人の精神の再建に必要なのは、歴史哲学ではあるまいか。」
どうやら、新保氏は、歴史哲学を語りたいらしい。
コラムは最後の方、こうなっておりました。
「昭和16年12月8日に、『勝ち目のない戦争』であることは十分、分かっていた『にもかかわらず』日本は、開戦したのである。戦わなければ、戦わずして敗戦後の日本と同じ状態にさせられていた。その方が、戦禍がなかっただけ良かったと思う人間も今日、多いかもしれない。・・・・70年ほど前、日本の国民は戦って見事に敗れたが、今日の日本列島の住民は、戦わずしてただだらだらと敗れていっているのではないか。」

う~ん。「戦わずしてただだらだらと敗れていっているのではないか」という問題提起。

そういえば、哲学といえば、加藤秀俊著「整理学」に
「西洋の場合も東洋の場合も、じっさい、知識の分類というのは、むかしからの大問題であった。多少乱暴ないいかたかもしれないが、西洋の哲学史というのは、ある意味で、知識の分類史、あるいは『知識についての知識』の歴史であったようにもみえる。ベイコン、ロック、コント、スペンサー、ヴント、ピアスンなど、中世から現代までの哲学者たちの少なからぬ部分は、知識の分類学にその多大のエネルギーを注ぎこんできている。」(p64)


ここで、日本中世史を整理した加藤秀俊著「メディアの発生」とつなげたいのですが、それはそれとして、今思い浮かぶのは、300回で終了したコラム「巻末御免」の、谷沢永一氏の最後のコラムが気になっております。

「・・自覚しないうちに蓄積された無意識または印象を、自ら掘り起こし、見つめ直し、検討する努力が求められる場合もある。伊藤整が戦後まもなく刊行した『小説の方法』はこの自己発掘の熱意が頂点に達していたと推察される時期の労作である。・・・これは自己を省察し、自分の姿勢を改め、居住まいを正す努力が要求された場合に相当する。理路整然とした論理構成が文章の極意であるとは限らない。表現とは結局、自己を鍛え直す作業である。自己発掘の努力がうむ熱意、これが一つの脈動となって読者の真情に訴えかける。・・・評論とは自己を評価し直すことである。それを縮約する不断の営みが、読者の胸を打つのではないか。」

ここにある数々の言葉の断片は、こりゃ整理学のための鍛錬じゃないか。
というのが、私が思い浮かぶことでした。
たとえば、「自覚しないうちに蓄積され無意識または印象を、自ら掘り起こし、見つめ直し、検討する努力」というのは、身辺整理ということとダブってくるような気がしてきました。「自己発掘の熱意・努力」「自己を評価し直すこと」「縮約する不断の営み」というのは、まさに整理の学なんじゃないかと、私は思うわけです。

ということは、「ただだらだらと」した自己を鍛え直す作業というのは、整理学の主要なテーマじゃなかったのか。といまさらながら、思うのでした。
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そして、概論は。

2009-12-06 | 古典
今年読んだ本で、私は加藤秀俊著「メディアの発生」(中央公論新社)に惹かれました。
さて、それをどうお薦めすればよいのやら(ここで、その本を味わうことをしないで、お薦めしようとするのが、ちょっと私の方向性としてどうかなあと思うところなのですが、まあそれはそれとして)。

すると、谷沢・渡部対談「平成徒然談義」を読んでいる時に、このお薦めにふさわしい言葉をみつけたりするのでした。ということで引用。


【渡部】たとえば、大学の講義でも、いいイントロダクションをやってくれる先達は『あらまほしき』です。最初にドイツへ留学したとき、留学先の先生に言われたことがあります。それは、『ドイツの講義は必ずしも深いことを言わないけれど、本当のチチェローネ(先達)をやるのだ』というようなことでした。英文学史などはつまらなければ限りなくつまらない。しかし、力のある人がやると『ああ、この本を読んでみたい』というふうに刺激されます。
それを最も実感したのは、上智大学で竹下数馬先生から江戸文学の講義を受けたときのことです。あれで日本文学に一つの道をつけてもらったと感謝しています。たとえば、与謝蕪村の講義では、萩原朔太郎の『郷愁の詩人 与謝蕪村』を挙げられ、・・・
いまは狭い専門分野を教えるのが偉い先生のようになっています。しかし、本当はその逆です。むしろ学部の専門的な講義は若い人が研究していることを教えたほうがいいかもしれない。そして、概論は、一番力のある先生がやるべきです。六十ぐらいにならないと、いろいろな本を読んでいませんからね。ヴィンデルバントの西洋近世哲学史などは、本当にすごいものです。
【谷沢】おっしゃる通りです。概論は、本当に実力のある学者がやるべきものです。京大の宮崎市定は概論ならどの時代も全部やってみせると言って、事実やってみせました。東大も昔はそうだったのですが、いつからか、おかしくなってしまった。概論は、『こういう意見がある』『こういう見解がある』『こんな見方がある』ということが大事です。それを『私はこう思うので・・・』とやられてしまったら、チチェローネになりません。(p32~34)


さてっと、加藤秀俊氏は「メディアの発生」のあとがきで
「これはわたしの八十代へむけての卒業論文のようなものだ、とじぶんではおもっている」と書いておりました。なぜ卒業論文なのか。いまなら私は谷沢永一氏が語る『概論は、本当に実力のある学者がやるべきものです』という言葉が浮かぶのでした。本当に実力のある学者が、八十代へむけての卒業論文を書かれた。そういう読みごたえを味わえる一冊が『メディアの発生』にはあります。
おおいそぎでつけくわえておけば、渡部氏の対談での言葉に
「ハイデッガーを専門にする哲学者の木田元は・・・晩年、ハイデッガーの大学講義録を読んだら本当にわかったという趣旨のことを言っています。日本には講義でノートを読む先生もいるけれど、向こうの講義は聞いていてエッセンスがわかるようでなければならず、いわば講演のような感じになります。・・」(p34~35)


そうなんです。加藤秀俊著「メディアの発生」は、概論であり、卒業論文であり、いわば講演のような感じなのであります。といいつつ、私はまだろくすっぽ『メディアの発生』を読みかえしていないのでした。
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徒然草の愉しみ。

2009-12-05 | 古典
不幸にして、学生の時に徒然草の楽しみをしらずに過ごしてしまい。いまになって読み始めている私であります。といってもパラパラでしかないのが恥ずかしい。
ということで、ここには徒然草好きの方々の言葉あれこれ。

橋本治著「これで古典がよくわかる」(ちくま文庫)に

「やっと『徒然草』の出番です。『やっと』と言っても、べつに『徒然草』が日本の古典の最高峰というわけじゃありません。『やっとそのままでも読める古典が出てきた』ということですね。・・・兼好法師の文章は、よく『近代の日本語の先祖』というような言われ方をします。つまり、兼好法師の文章は、現代人でもそのまんま読めるんです。『でもオレは読めない』なんてことは言わないでください。この『読める』は、『読める人だったら読める』ということなんですから。この文章の構造は、我々の知っている現代日本語とほとんど同じものですね。・・・」(p185~186)

三省堂の新明解古典シリーズ10「徒然草」監修桑原博史
そこの第百五十五段「世に従はん人は」の解説に
「第百三十七段とともに、本格的な評論と言うべき内容で・・・・書いたりしなければならなかったところに、筆者の不幸があり、読者の幸福がある。幸福とは、『徒然草』を読むことのできる幸福である。」(p227)
なんていう言葉がさりげなく挿入されております。

そういえば、ドナルド・キーン著(大庭みな子訳)「古典の愉しみ」(宝島社文庫)のはじまりは
「僅か数ページで日本の美学の全貌を説明しつくし、数百年にわたって育てられてきた日本人の美意識について語るのは難しい。日本文化の中核になっている日本人の美意識を抜きにして日本文化の特徴を語るのはさらに困難なことである。私は日本人の特質を一冊の書物『徒然草』に関連して書いてみようと思う。・・・・」(p8)と第一章「日本の美学」をはじめておりました。


困ったことはお受験でした。古典に嫌悪のバリアーを張りめぐらせる役目をはたしているようであります。それもついでに書いときましょう。

串田孫一著「古典との対話」(筑摩書房)

「私達は、『枕草子』や『方丈記』などそうであるが、学校時代に教科書の中でこの『徒然草』にめぐり合っている。それだけであればいいが、試験の問題として出る可能性に脅かされながら、これに苦しまされたという記憶を持っている。これは思えば非常に不幸なことであって、せっかくのめぐり合いがそのためにそれで終わってしまう。
専門の国文学者は、前にも書いたようにそれが研究の対象となってしまい、『徒然草』との自由な付き合いが出来にくくなっている。それを考えると、好きなようにこの本を読める立場にある私達は恵まれていると思わざるを得ない。」(p110)

う~ん。試験・受験の弊害もありますが、
それじゃ、学生のころに徒然草を愉しんじゃった方はどうなるか。
嵐山光三郎さんはそういうタイプでした。

「高校二年で『徒然草』だったように思います。最初に『徒然草』に出会ったときは、やたらにおもしろくて、目からうろこが落ちるようでした。『なるほどなあ。』と感心して、兼好が書いている一節を引用して、先生や親をからかったものです。ところが、いざ試験になると、まるでだめでした。作品を鑑賞してしまうあまり、分析力に欠けました。試験問題の文中に線が引いてあり、その部分はなにをさすか、とか、あるいは文法の問題がでると、とたんに頭がこんがらかってくるのでした。・・・・
『人間の努力やいとなみは、春の日の雪だるまを作るようなものだ。』と説かれると、『そうかそうか、つまり勉強しなくていいんだな。』とか『試験でいい点をとるのはくだらないのだ。』とか思えてくるのでした。じつにいいことを教えてもらったと思ってサボっていると『きょう、そのことをしようと思っていても急用でだめになり、一生なにもできない。』という個所がでてきて『一瞬の怠りが一生の怠りなり』と叱られてしまう。
ぼくは『徒然草』を一章読んではうなり、さらに一章読んでは絶望し、また一章読んではひきずりこまれ、その結果、世捨て人にあこがれてしまい、試験ではまるで解答きないという結果に終わりました。・・・兼好の無常観は、じつは乱世の自立精神に裏うちされたもので、裏があるのですが、そのことに気がつくのは、ずっとあとのことでした。・・・」(講談社少年少女古典文学館「徒然草・方丈記」あとがき)

こちらは、こちらで大変だったようです。
どうやら、徒然草読解にも先達の道案内人が必要なようです。
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受験と徒然草。

2009-12-04 | 古典
谷沢永一・渡部昇一対談「平成徒然談義」(PHP研究所)を読んでいたら、同じ二人の対談「読書談義」があったことを思い出しました。
そちらでは谷沢氏がこう語っておりました。


「日本の一番大事な古典で、これが読める注釈とか評釈というものだ、というのが今はほとんどないわけですよ。澤瀉久孝は沼波瓊音の『徒然草講話』を読んで国文学に志したんですが、明治大正期に沼波瓊音が果したような役割、古典の面白さへ一般読書人を深く誘いこむような精気のある評釈書が現在見当たらないのは、なんとしても淋しく残念ですね。昭和期の国文学が学者気取りにばかり気をとられていた結果でしょうか。」


この「読書談義」の最初の方にある対談箇所も引用したいのでした。

【谷沢】・・『伊勢物語』ならこれだという、そういう言い方でカチッと一つの大切なものを評価するというのが、前世代の学者の共通点でして、釈迢空の論説なんかいつもその点でくるわけですね。それが現在はどうも影をひそめたような感じがします。
【渡部】公平に並べてみて・・・
【谷沢】ええ、公平、公平(笑)。
【渡部】受験生的な態度ですね。受験だと無難な答案書かなきゃ点を引かれるという恐れがあるから、一つの説にコミットできないわけですね。
【谷沢】ぼくら、この分野あるいはこの著者について一番大切なのは、この一声、この本だという言い方が体質的に好きなんですが、それを大学の講義なんかでやる人が少ないんでしょう。

   ・・・・・・・

【渡部】それは結局、前にも言ったように受験参考書的なんです。試験のとき採点官が点が引けないような答案を書きたいわけです、要するに。・・・・・
ぼくらにはぴんとくるわけですね。日本文学史を全部自分で読んで公平にできるわけがない。上代では誰、近代では誰という発言の貴重さがわからない人間は、本当にやったことがない人なんでしょう。やったことのある人は、これは貴重なことをよく言ってくれた、普通は言わないことなんだけど、と思う。(笑)



ここで、「平成徒然談義」へともどります。そのp74に

【谷沢】そもそも近代以前の日本において、学問は人間の精神を養うためのものでした。つまり、人間学、社会学のテキストとして『論語』を筆頭に漢籍を読んだわけです。一方、チャイナで四書五経を学ぶのは、科挙に受かって高級官僚になるためでした。学ぶ姿勢が違うと、当然ながら同じ漢籍を読んでも、違う結論にいたります。


チャイナの科挙が、今の日本の受験勉強の弊害とダブってくるようです。
すこしまえに、こんな箇所(p73)


【渡部】わが身を振り返ると、端から見たら、われわれだってそうかもしれません。いい歳をして、受験参考書によく出てくる『徒然草』を種にしゃべっているのは浅ましいとか(笑)。
【谷沢】そうです。『あいつら、何がしたいのか』と端から思われることは十分覚悟しないといけませんね。いまは受験勉強が、学問することだという勘違いも多いですし、『徒然草』を読んだのは受験のためという人が多いでしょうからね。



ここで思い浮かんだのは、原田種成著「漢文のすすめ」(新潮選書)でした。
そこに
「私は試験というものは、その範囲の中で一番大切なところ、一生涯覚えておく価値のあるところを出題すべきであると考え、また、実際、私の出題はそれに徹していた。それが教育であると信じている。」(p143)という言葉がある。
ここまでは、一生涯の精神を養うにたる古典を教えるという矜持があったわけです。ちなみに原田種成氏は1911年生まれ。

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文書きちらす。

2009-12-03 | 古典
徒然草を読もうと思ったのは、谷沢永一著「百言百話」に載っていた箇所が印象に残っていたからでした。まずは、そこを引用。

「手のわろき人の、はばからず文(ふみ)書きちらすはよし。
        見ぐるしとて、人に書かすはうるさし

字の下手なんか、平気で手紙なんかをドシドシ書くのは宜しい。見苦しいからと云うので、人に書かせるのは、うるさい厭味なことだ(沼波ケイ音訳文)。沼波ケイ音は『この段は短いが、言が実に強い』と嘆賞して、次に如く彼一流の『評』を記している。
――『私が中学に居た時、和文読本と云う教科書の中に、ここが引いてあった。鈴木先生の講義を聞いた時、少年心ながら、ハッとした。今から其の時の心持を譬えて云って見ると、凛然たる大将が顕われて、進め、と号令したような気がした。恥ずるに及ばぬ、自分を暴露して、其の時々のベストを尽くして、猛進するのだ、と云う覚悟は、この段の講義を聞いた時にほのかながら芽ざしたのであった』・・・・」(p122・中公新書)

それから、何年かたって、古本で沼波ケイ音著「徒然草講話」を手に入れて読んだのでした。うん。よかった。もうすっかり内容をわすれてしまったのですが、また読もうとおもいながらも、そのままになっております(笑)。

そして、谷沢永一・渡部昇一著「平成徒然談義」(PHP研究所)を今日読んだのでした。いろいろなことが刺激される対談なのですが、とりあえず第三十五段についての谷沢さんの語りを引用しておきます。


【谷沢】 この『手のわろき人』で思い出すのは、司馬遼太郎です。司馬さんは『燃えよ剣』のなかで土方歳三に『筆蹟のうまいやつには、ろくな奴がいない』と言わせています。その司馬さんの字がまた読みにくい(笑)。小西甚一は『悪筆家元』という四角い判子をつくり、手紙に押していました。私はそれほど洒落てはいませんが、兼好とおぼしき肖像の上に、この文句が書いてある掛け軸をもっています。書いたのは松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)。・・偽物でしょう・・・それでも、この掛け軸は気に入っています。(p157)


ついでに、もうひとつ。

【谷沢】私は『開運!なんでも鑑定団』をけっこう楽しみに観ておりますが、真贋を見極める力のある人、ない人、さまざまな素人さんが、さまざまなエピソードをもって登場して、人間の面白さが出る、それがとても楽しいです。(p208)

ここから、第八十八段へとつながるのでした。
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心しておりよ。

2009-12-02 | 短文紹介
谷沢永一・渡部昇一対談「平成徒然談義」(PHP研究所)が10月に出ておりました。さっそく注文して手にしました。まだ読んでないのですが、簡潔な対談となっているようです。
ひとつだけ引用。


【渡部】そういえば、三年か四年前のことでしたが、本を持って階段を降りていて、最後の段辺りで足を踏み外して足の骨を折ったことがありました。生まれて初めて松葉杖をつく身になり、またあまりに腹を立てたせいか、抵抗力が落ちたらしく、帯状疱疹に罹って顔の半分が歪んでしまった。連続してひどい目に遭いました。・・・(p164)
【谷沢】はい(笑)。まったく同感です。渡部先生が骨折した折りに、本を持っていたと聞いてから、上へ上がるときは持って行くけれど、階段を降りるときは本を持たないようにしました。(p165)


う~ん。ちょっといつもと違う、簡単にすませるような感じがありますが、読むのを楽しむのに、ちょっとずつ読みます(笑)。
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酒と醗酵と。

2009-12-01 | 短文紹介
外山滋比古著「思考の整理学」に書かたテーマの「卒業論文」に、私は興味を持ちました。それからしばらくして、外山滋比古著「知的創造のヒント」をめくると、9章「酒を造る」に同じテーマが取り上げられてる。そういえば「思考の整理学」ではⅡ章の「醗酵」という箇所が卒論を語っていた。「酒を造る」と「醗酵」というのが面白いなあ。ということで、「酒を造る」から引用。

「一度恥を忘れてしまえば、二度目からは罪の意識はなくなってくれる。それをいいことにして、毎年毎年、年中行事のように、春になると、どうすれば論文が書けるかを話したものだ。論文の書き方というと、形式のことを連想する学生が多いので、表現に至る思考法といったきざな題にしたこともある。英文科三年の演習の時間を一回つぶして、百分間の話をするならわしになっていた。これが学生の間で話題になっているという噂をきいたことがある。こういう恥さらしなことをあえてする教師はめったにいない。珍しいから話題になったのであろう。・・・」

う~ん。結局は、この毎年の演習をつぶしての講義が、熟して、ある日「思考の整理学」として結実したという道筋が見えてくるように感じられます。「あえてする教師」が他にいなかったのでしょう、そう思ってみると「思考の整理学」のロングセラーが理解できるような気がしてきます。

ということで、ここでは引用文にある「恥さらしなこと」の道筋を、ちょっと本文にそって辿ってみたいと思います。「酒を造る」の導入部が、ステキなのです。
こうはじまります。


「イギリスの詩人のロバート・グレイヴズが、詩作では食っていけないのは、昔も今も変わりがない、身過ぎ世過ぎのために心に染まぬ仕事もしなければならないが、下手なことをすると肝心な詩が書けなくなってしまう、とのべているのを読んだことがある。」

その下手な仕事に、教師があがっていたというのです。

「教師は知りもしないことを知ったかぶりをしないと毎日が過ぎていかない。これほど創造にとって有害なことはすくないのだから、詩人たらんとするものは教職に近づかぬことだ。そういうグレイヴズの意見を読んで、やがて思い当たることにぶつかった。」

こうして、ご自身の経験をかたるのは、卒論は学生ばかりじゃないのだと、ご自身に鑑みておられる誠実さが、丁寧な言葉からにじんでくるようです。
ではその箇所を引用。


「学生に論文を書かせるのだから、指導をしなくてはならない。たいていの大学で論文指導といった題目の講義か演習が開かれている。これが問題である。論文を書くのが当り前になっている専門なら、かくすればかくかくの論文ができ上る、と実地教育ができるであろう。自信のある教師なら、自分の論文を模範として提示してもいい。ところが、そうはいかないことが多いから苦労する。
だいたい外国文学では言葉を何とか読みこなすのにひどく時間と労力をとられるから、論文めいたものすら書く余力が残らないことがすくなくない。何年に一篇でも書けたら奇特というべきである。かつては論文などひとつもなくても大学者でありえたものだ・・・・泣く泣くではないにしても、渋々『論文』を作らなくてはならなくなったというのが正直なところである。とても胸を張って我に続けなどといえるわけがない。
納得がいかないことはいっさいご免こうむる、といったことが通用するほど、世の中は甘くない。学生諸君にはすこしでもいい論文を書いてもらいたいという親心もある。自分にはうまく書く自信はないのに、論文作成の方法を教えなくてはならないという破目に陥る。やはり教師にはなるものではない、というグレイヴズの言を思い浮かべて、情けない気持になることがある。切羽つまれば窮余の策も浮かんでくるものらしく、野球をしたことのない野球監督や、創作の経験のない批評家の有効性などを引き合いに出して、自分をはげまし、何とか論文の書き方を教えようと決心する。私もそうであった。もう二十年くらい前のことである。」


こうして、私がはじめに引用した箇所へと続くのでした。
ちなみに、この外山滋比古著「知的創造のヒント」(講談社現代新書)は最初は昭和52年に出版されておりました。

さて、12月ですね。忘年会シーズン。私も飲み会が土日。5日・6日とつづきます。
飲みながら、この外山滋比古の「酒を造る」・「醗酵」が思い浮かんだりして(笑)。
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