和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

直にお聞きになって。

2013-02-13 | 短文紹介
文藝春秋3月号の赤坂太郎氏の文に、
「日本はアフリカ外交に弱く、独自の情報収集能力は皆無に近い。湾岸危機の頃から指摘されてきたが、今も変わらない。」(p225)
とありました。

産経新聞1月26日に掲載された
石崎幸三の「木山聡さんを追悼する手記」には

「・・アフリカの中国大使館数と日本の大使館数を比較するだけでも、いかに日本には予算がないか分かる。それは外務省の怠慢ではなく、多くの日本人が必要と認めないからである。少なくともジャーナリストや政治家は、それに気を向けるべきである。海外邦人に対する安全確保、未来の日本に対する投資としての教育、いずれも経済協力開発機構(OECD)加盟国中でも最低レベルに落ちている。・・・必要な予算は必要なところには回らず、身近の『安心・安全』に迎合したところに極端な大盤振る舞いの予算が回っている日本。・・・
一部の政治家は根拠もなく外国政府に頭を下げ、それによって日本人の犠牲者が出てくる可能性があることを分かっていない。国内の『安心・安全』のためにいかに多くの海外邦人の『安心・安全』が犠牲になっているか。木山君の死を無駄にしないためにももう一度考えるべきだ。」

うん。やはり全文を読んでもらった方がよいのですが、
一部を引用しました。

最近読んだなかで、
思い浮かぶ箇所はというと、

日下公人著「日本精神の復活」(PHP)に

「イギリス外交は英国国教会(アングリカン・チャーチ)の牧師を別働隊として持っているし、アメリカ人は各種財団法人(シンクタンク)を使っている。日本の別働隊は商社だと思う。」(p115)

そして、曽野綾子著「この世に恋して」(WAC)には、こうあったのでした。

「いつかたまたま皇后様からご連絡があったとき、アフリカのマダガスカルからシスターが二人、南アフリカ共和国、南米のボリビアから神父がお一人ずつ、日本にいらしてたことがありました。私が何の気なしに『こういう方々のお話を直にお聞きになっていただける機会があるとよろしいのですが』とお話したら、数日後に来るようにとのお言葉でした。」(p190)


こうして、さまざまなチャンネルをむすびつけてゆくのでしょうか。
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何度読み直しても。

2013-02-12 | 短文紹介
2月8日の一面コラム産経抄の文が気になっておりました。
こうはじまります。

「アルジェリア人質事件で犠牲となった日揮の木山聡さん(29)は、よほど自慢の教え子だったのだろう。事件直後、恩師である長岡技術科学大学名誉教授の石崎幸三さん(66)が、手記を小紙に寄せていた。何度読み直しても、胸が熱くなる。・・・」

昨日、産経の古新聞を整理して、さがしていたら、1月26日第2社会面に石崎幸三氏の手記がありました。コラムでの紹介がなければ、私は読まずじまいでした。読めてよかった。

みなさんにも、全文読んでほしいと思うのですが、
すこし引用してみます。

「・・実際、日本は海外で活躍する日本人が必要で、その人たちは高い志で、勇気と正義感を持って働いてくれている。海外は危険と隣り合わせである。私が海外にいたころの日本は貧しく、1ドル360円で国は赤字で苦労していた。当時の在外公館は、邦人の安全確保をしようにもできない状況であったが、今の在外公館は情報集めにしても、邦人の安全確保にしてもできるはずだが、実際には行われていない。」

最後の箇所も引用してみます。

「・・・インターネットでは『日揮は社員の安全を確保できない限り、撤退すべき』という意見があったが、とんでもない。日揮は欧米企業と競争し、日本のためにも競争している。日揮一社で軍隊や警察は持てず、企業には限界がある。欧米企業は国が守っている。邦人の安全確保は国の義務であり、その中で日揮は犠牲者に関する情報の出し方を見ても、よく社員と社員の家族を守っていると思う。木山君の冥福を祈るとともに、虚構の『安心・安全』に温々(ぬくぬく)としていた日本人に代わり『ごめんなさい、すまなかった』。そして『いままで、ありがとう!』と言いたい。・・・残されたわれわれは、日本の虚構の『安心・安全』をもう一度考え直すべきである。」

やっぱり、短い引用はよくないかもしれない。
石崎幸三氏の手記全文を
繰りかえして、読み直させていただきます。
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編集ひと筋。

2013-02-11 | 短文紹介
読売新聞の2月1日に
第64回読売文学賞の受賞者が発表されており、
松家仁之著「火山のふもとで」が小説賞に入っておりました。
選評は山崎正和氏。そこから少し引用。
最初はこうはじまります。
「青春についてシニシズムが瀰漫する現代、これにあえて健康なビルドゥンクス・ロマン(成長小説)に挑み、それが可能であることを証した稀有の秀作である。」

うん。私は読んでいないので、
でも、読まないだろうなあ(笑)。
最後はこうでした。

「感傷的な情念過剰の時代に、作者は散文精神をも証明したといえる。」

気になるなあ。
読売新聞2月5日の文化欄には「読売文学賞の人びと」として、
松家仁之(まさし)氏(54歳)のことが書かれておりました。

「長年、書く側ではなく、書き手を支える編集者として過してきた。早大在学中に文学界新人賞に応募し、佳作入選したことこそあるものの、その後は老舗出版社の新潮社で編集ひと筋。海外文学を紹介する『新潮クレスト・ブックス』シリーズや雑誌『考える人』創刊にも携わり、2010年の退社直前には同誌で村上春樹さんのロングインタビューの聞き手も務めた。・・・」


うん。編集者が小説を書く。
というのは、興味深いなあ、
小説家の小説が、それほどつまんなくなっているのじゃないか。
編集者があたためていた小説のイメージとは。
気になります。まあ、結局は
怠惰な私は読まないだろうなあ(笑)。

とりあえず、読む機会があったらと、
備忘録として。

古新聞では、
朝日新聞1月30日の一面左上に
安岡章太郎さん死去の記事。
そのはじまりは
「『第三の新人』の一人として戦後文学に一時代を画し、深い文明批評をもりこんだ長編小説『流離譚』や紀行『アメリカ感情旅行』などで知られる・・・」

社会面の「ののちゃん」となりに
ドナルド・キーンさんの話が掲載されておりました。

「・・・彼の話にはユーモアがありました。幕末から明治初期を舞台に日本の軽業師たちが世界を渡る『世紀末サーカス』は非常に面白く、英訳したいと思っていましたがかなわなかった。・・・」

うん。他の人の話にはユーモアを感じなかったのかもしれない。

そういえば、朝日新聞2月4日文化欄に
菅野昭正氏が追悼文を載せておりました。

「・・そして堅実さとユーモアとが溶けあった作風には、ひときわ余裕が感じられるようになった。」

「・・史料や伝承をよく調べあげ、それを十分に咀嚼しながら歴史の動きを想像する書きかたが、最後まで揺らいでいない。戦後の歴史小説のなかで屈指の作品にあげられる『流離譚』は・・」

菅野氏の追悼文の最後は、
「・・そしてユーモアをまじえた楽しい閑談を、折にふれて私は思い出していた。いまあらためてそんな瞬間を呼びもどしながら、ご冥福を心からお祈りしたい。」


私は『世紀末サーカス』未読。
この機会に。ひらいてみたくなりました。
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シスターみたいでした。

2013-02-10 | 短文紹介
曽野綾子著「この世に恋して」(WAC)には
副題として「曽野綾子自伝」とあります。

本を読み終って、しばらくしてから、
その一節が何気なく思い浮かんでくることってあります。
「この世に恋して」を読むと、
こりゃ、何気なく思い浮かぶ箇所が何か所も出てくるなあ。
という印象をもちました。

ということで、そのひとつ。
「聖心女子学院」について、引用させてください。

まず、こんな箇所があります。

「私は幼稚園のときからカトリックの修道院が経営する聖心女子学院に入れられました。帰国子女が多いけれど大財閥の娘は少ない。まだ有名でもない学校でした。」

うん。曽野綾子は昭和6年(1931年)生まれ。

ちなみに、須賀敦子は昭和4年(1929年)生まれ。
須賀氏は6歳の時に、西宮市の小林聖心女子学院小学部に入学。
8歳の時に、東京へ来て、白金の聖心女子学院小学部三年に編入。
12歳の時に、聖心女子学院高等女学校に入学。
その12歳の時は、昭和16年で12月8日太平洋戦争勃発。・・
昭和23年(1948年)新設された聖心女子大学外国学部英語・英文科二年に編入。
昭和26年(1951年)聖心女子大学を卒業。第一回生同期の35名のうち、
後年、シスターになった者は14名。・・・・

もどって、曽野さんの「この世に恋して」を引用していきます。

「戦前は小学校を出ると高等女学校に進むんです。高等女学校は五年までありました。たいていの人は高等女学校を出るとお嫁に行くことになっていました。その当時の聖心は幼稚園、小学校、高等女学校は白金三光町にありました。・・当時の聖心は二万坪あって、敷地の一部には畑を作って牛も飼っていました。これが修道院のしきたりなんです。シスターたちはヨーロッパの各地から船で日本の横浜に着くと、そのまま迎えの車に乗ってこの三光町の修道院に入り、一生そこから出ないしきたりでした。・・・・当時は修道院の中に入ったらもう出ないのが普通でした。お墓は富士の裾野に作ってありました。」(p35~)

「幼稚園の入試は、『お名前は?』『お年は?』と聞くだけ。二つに答えられたらもう合格。本当にいい時代でした。外国のシスターもいて、幼稚園から英語の詩を習いました。私の受け持ちは英国人のシスターでした。英国王室の図書館長の娘だったとも言われています。
そのシスターが黒い修道服に前掛けをして、暇さえあればトイレ掃除をしておられました。身分や受けた高等教育に関係なく、人は床にひざまずいて掃除をするものだということも私は習いました。」

「戦前ですから学校には天皇皇后両陛下の御真影が下賜(かし)されていて、生徒たちはその前ではお辞儀をすることになっていました。『人間の王』に対しては礼儀を尽くす。でも本当の偉大なるものは神なんだとわかっていますから、別に違和感はないんです。御真影は特別の小さなお社の格好をした奉安殿の中に収められていて、各校にあるんです。戦後、文部省のお役人ですかね、それを回収に聖心にまで来たんだそうです。時の校長先生はドイツ人の修道女で『どこに国家元首の肖像に対して礼を尽くさない国がありますか。それでも欲しければ御真影だけを持っていきなさい。お社は美術品だから置いていきなさい』と言ったそうです。これも一つの抵抗の姿勢です。学校で教えられたのは、『国際的であろうとするならば、その国の人として立派な人間になれ』ということでした。」(~p40)

ところで、この本を読んでゆくと、
最後の方に、皇后さまが登場しております。

「皇后様は聖心女子大学の三級下でした。
卒業後に人生のことを時々お話するようになりました。・・
私は長く聖書を勉強してきましたから、聖書の言葉を話題にすることもありましたが、皇后様が研究者のように深く理解しておられて驚くことがあります。・・
いつかたまたま皇后様からご連絡があったとき、アフリカのマダガスカルからシスターが二人、南アフリカ共和国、南米のボリビアから神父がお一人ずつ、日本にいらしてたことがありました。私が何の気なしに『こういう方々のお話を直にお聞きになっていただける機会があるとよろしいのですが』とお話したら、数日後に来るようにとのお言葉でした。それで皇居にお邪魔することになり、お茶の時間を挟んでそれぞれの国の事情をじっくり話していただきました。
その後で私はシスターたちにきわめてジャーナリスティックな質問をしたんです。『ところで皇后様のご印象はいかがでした?』。するとシスターたちは数秒間考えた後、一人が『シスターみたいでした』と答えました。その言葉が私には実によくわかったんです。皇后様にも様々な暮らしに対するご興味がおありでしょう。しかし皇后様は日本という国のあり方の基本を守るために、一切の個人的な選択をすでにお捨てになっているように思えます。陛下のご任務に殉じるためです。その覚悟の程をシスターたちはひしひしと感じたのだと思います。
私が一番恵まれていたのは、たくさんの個性的な魂に出会えたことです。人脈という言葉は好きではありませんが、人脈は作ろうとせず、利用しようとしないとできるものかもしれませんね。」(~p191)
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生かし尽して。

2013-02-09 | 短文紹介
モンサラット著(吉田健一訳)「怒りの海」(新潮社)を読み終わる。
とかく、私は短い文ばかり読んでいるので、
こういう長い小説は、まず、息継ぎで困ります。
ちょうど、プールでクロールをはじめるとする。
どうしても、息の吸ったりはいたりのリズムが出来ずに、
途中で苦しくなって、足をついて立ち上がるようなことを
まあ、私は何度も何度もするタイプなのです。
そうすると、小説の山場で、途中で休んでみたり、
その休んだあとに、読み始めると小説のくつろいだ箇所になっていたり、
小説のリズムと、私という読み手のリズムがうまくそろわない、
下手な読者だなあと、思いながらも、読み終えました(笑)。

ここでは、小説の最後の方に出てくる、
箇所をすこし引用しておきます。

「『僕は32です、』とロックハアトは或る時、エリクソンに年を聞かれて答えた。『一生で一番いい時がもう過ぎてしまつたようなもんです。・・・』併しロックハアト自身は、それが本当ではないことも知つていた。彼にとつては、戦争の無意味な破壊を仕事にしていたにも拘らず、その間に過した年月は決して無駄なものではなかつた。彼は急速に大人になつて行つて、1939年に海軍に入つた、生きて行くための目的を持たない、27歳の若いジャアナリストとは違つた人間になつていた。戦争は彼に何ものかを与えて、そのために彼が払つた代償は少しも高過ぎはしなかつた。彼は五年間、書く仕事から離れていたが、その代りにその他の凡ての点で、克己心とか、責任をとるということとか、或いは単に自分の能力を信じて詰らない不安に悩まされないという点で得をしていた。・・・戦争が終つた後では僕はもう大丈夫だ、と彼は時々思うことがあつた。人はもう僕をこづき廻すことは出来ないし、僕が僕自身をこづき廻すということも出来なくなつたんだから。」(下巻p230)


さてっと、吉田健一氏の最後に載っている解説のはじめで、こう書いておりました。

「・・・これによつて彼は文学史にその名を留めることになるのだと見てよさそうにさえ思う。そして勿論それは、戦争文学の部門にである。そういう意味で、『怒りの海』は第一次世界大戦を描いた代表作とも言えるレマルクの『西部戦線異常なし』や、或は今度の大戦では、吉田満氏の『戦艦大和の最期』と比較することが出来る。何れも或る作家の作品の系列で特異な位置を占めているというよりも、寧ろそれぞれの作家をその作品の作者として定義づけている作品である。モンサラットはこれからも作品を書くかも知れないが、――彼は、現在、南アフリカ連邦政府の一情報官となつて勤務している、――時代的な意義に掛けて『怒りの海』以上のものを発表することがあるとは思えない。それ程彼は今度の大戦という、異常な大事件で得た体験を、この一篇の作品で生かし尽しているのである。・・・」
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現代詩の子役。

2013-02-08 | 詩歌
地デジが始まる際に、どうせ液晶テレビを買うのなら、
HDD内臓のにしようと、放送開始直前で購入したのでした(笑)。すると、これズブの素人でも録画が簡単。

ということで、最近では、気になる番組はつい録画(笑)。
2月5日NHKBSプレミアムで、評判だった映画の再放送を録画しておいたのでした。森繁久弥主演の「警察日記」。その録画を見る。その時代背景(戦後の会津磐梯山)や子役の二木てるみの演技がじんわりとひろがる映像表現に堪能しておりました。

ところで、岩波文庫の新刊に自選谷川俊太郎詩集。
そうだ、現代詩の子役・谷川俊太郎
というイメージが私の中にひろがります。
その子役が、どのように年齢を重ねていったのか。
という興味がわきます。

竹内政明著「『編集手帳』の文章術」(文春新書)に
こんな箇所があったなあ。

「何年か前、いまは亡き井上ひさしさんが日本記者クラブの記者研修で講師をなさいました。記念の色紙に揮毫された言葉を覚えています。

  むずかしいことをやさしく
  やさしいことをふかく
  ふかいことをゆかいに
  ゆかいなことをまじめに
         書くこと      
              」(p32)

現代詩の17歳が、
どのように年を重ねて「書くこと」を続けてきたのか。


岩波文庫「自選谷川俊太郎詩集」(定価700円+税)。
文庫解説は山田馨で26頁。

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遅読と本購入。

2013-02-07 | 本棚並べ
石井光太著「遺体」(新潮社)を読んでいたので、
新刊の石井光太著「津波の墓標」(徳間書店)をさっそく注文。

門田隆将著「死の淵を見た男」(PHP)を読んだので、
門田氏の他の本も読みたくなり、
こちらは古本を注文。

古本屋は軍学堂(神田神保町)。
その古本屋へ2冊注文。

門田隆将著「この命 義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」(集英社)
門田隆将著「康子十九歳 戦禍の日記」(文藝春秋)

古本代700円+600円+送料340円=1640円なり。

昨日届く。どちらもきれいな本でした。
遅読が、本購入のペースに追いつかず、
パラパラ読みを、もっと多用しないと(笑)。
かといって、
兎と亀のたとえもあるさ。
遅いだけが人生ダ。
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とりあえず。

2013-02-06 | 本棚並べ
とりあえず。
吉田健一訳「怒りの海」上巻を読み終わるところです。
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458文字。

2013-02-05 | 短文紹介
竹内政明著「『編集手帳』の文章術」(文春新書)を、
パラパラとひらいてみる。
こういうのは、最初から最後まで読むと、
読む先から忘れてゆくので、
パラパラめくりがふさわしい、
と思うこの頃。

そこにこんな箇所がありました。

 朝日新聞「天声人語」606文字
 毎日新聞「余禄」664文字
 産経新聞「産経抄」689文字
 東京新聞「筆洗」555文字
 日本経済新聞「春秋」564文字
 読売新聞「編集手帳」458文字

 おもだった新聞各紙の一面コラムです。
「編集手帳」がいかに短いか、お分かりになったでしょう。(p48)


織田正吉の「日本のユーモア」第一巻を読んでる時に、
三題噺と長忌寸意吉麻呂の箇所を読んでいる時に、
どういうわけか、編集手帳の竹内政明氏が思い浮かびました。

当意即妙に、時事問題を458文字に載せる手腕。

さてっと、竹内政明氏の文春新書の新刊は
文章術とあります。

清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)に
「何から書き始めたらよいのか。それは、文章作法の中でも、恐らく、最大の問題でしょう。それが十分に会得されたら、文章作法は終るのではないでしょうか。」(p114)という箇所があるのでした。

ちなみに、これは「第十八話 心を盗む」の書き始めにある言葉でした。
そういえば、文春新書の竹内政明氏の既刊の二冊の題名は

「名文どろぼう」と「名セリフどろぼう」となっておりました。



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これは恐らく。

2013-02-04 | 前書・後書。
注文してあった古本とどく。

モンサラット著・吉田健一訳「怒りの海」(新潮社・上下巻)。
じつは、「非情の海」という本は、
以前購入してあったのですが、そのままに、読まずじまい。
その本を、さがしても見あたらず。
同じ本なら別の題名のを購入しておこうと、思ったわけです。
また、未読本がいつ出てくるかわかりませんからね。
なんてったって、読まずにいた自分が悪い(笑)。

古本屋はマイブック(高槻市)
古本代上下巻で2000円+送料300円=2300円
昭和28年の本なので、黄ばみと匂いもありました。


さっそく訳者「あとがき」を読む。
その最後には、こうあります。

「・・再びもとの比較に戻って、同じリアリズムを集中的に活用して一つの人間的な真実に達した『西部戦線異常なし』や『戦艦大和の最期』を、小説の形式を借りた一種の悲劇と見るならば、『怒りの海』は寧ろ叙事詩的な正確を持った作品であると言える。これは恐らく、今度の大戦が生んだ最大の叙事詩である。 昭和27年12月 訳者」


これだけじゃ、あまりにそっけないですので、
「あとがき」のこの箇所も引用。

「・・・『ヒロシマ』や『裸者と死者』や『二十五時』のような小説が現れて以来、近代戦の惨禍のみが強調されて、人間はそういうものを前にしては全く無力であり科学の暴力に屈した人間が如何に醜悪で卑屈なものであるかを語ることが定石となっているのに対して『怒りの海』では、人間が最後まで・・・人間たることを失っていないということなのである。ここでは・・人間の死に対して人間が、或いは少くとも我々読者が無感覚にされるということはない。涙があり、温かい感傷があるというのではなく、人間の死を人間の死として認める健康なリアリズムがこの作品にはある。そして事実、人間はこのようにして最後まで戦い、又生き抜こうとするものなのである。・・彼等は、小説家の悲観的な感傷の犠牲に供せられてはいないのである。」


うん。今度は、読みます(笑)。
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吉田の『菩薩』の表現。

2013-02-03 | 短文紹介
『地涌(じゆ)の菩薩』て、いったいなんだろうと、気にもしなかったのですが、「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」(PHP)を読んだときに、あらためて、この言葉に惹かれました。

最初は、瀬戸内寂聴・梅原猛対談「生ききる。」(角川oneテーマ21新書・2011年7月)に見かけました。

梅原】 私はやはり仏教が立ち上がるべきだと思います。
私は日蓮の『地涌(じゆ)の菩薩』に注目します。この『地涌』という語は『法華経』の『従地涌出品』第十五に出てきます。・・・『本化(ほんげ)の菩薩』は天から舞い降りてくるのではなく、大地から涌き出てくるという考えです。・・・四菩薩は大衆の中にいて、大衆を導く仏です。というより、大衆自身。今、被災者のことを考えると、彼らこそ『地涌』の菩薩そのものなんです。だから必ず、地から湧き上がる力を持っている。私はそう考えます。(p52)

「死の淵を見た男」に、原子炉一号機、二号機を操作する中央制御室(中操)の当直長・伊沢郁夫氏が、引き上げてくる箇所があります。そこを引用。

「免震重要棟の廊下やフロア、トイレのところ、ありとあらゆる場所に人がうずくまってるんですよ。協力企業の人も含めて、力尽きてる人がいっぱいいる。なにか不思議な感じがしました。・・・・こっちは、やっと中操から生きて帰りました。するとそこに、技術系ではない人たちが沢山いたんです。寝転んで、わけのわからないところに押し込められて、今、何が起こってるかわからないという人が女性や協力企業さんも含めて沢山いたんです。自分自身がやっと生きて帰ってきたって思っているところに、自分が助けなきゃいけない人間がまだこんなにいっぱいいる、ということを知ったんです。・・・あまりにいっぱいいるので、びっくりしました。緊対の吉田所長たちがいる円卓は最前線ですが、うしろの方には、なんというか避難した非戦闘員がいっぱいいたわけですよ。でもびっくりしただけでなく、私としては、仲間が増えたという思いも涌いてきました。中操では、自分が最高責任者でしたから、やっぱり孤独だったんですよ。でも、免震棟に来たら、吉田所長を筆頭に、大勢で闘っているわけじゃないですか。特に、復旧班の主力は、放射線と水素爆発の危険がある現場で電源復旧に全力を挙げていました。だから免震棟に引き揚げても、私もあきらめなかったですね。中操では『死』を覚悟していましたけど、ここでは、『死ぬ』という思いはなかったです。免震棟では『ここからやれば、なんとかできる』と思ったんです。不思議な感覚っていうか、まだまだいける、と思ったことを覚えています」(p229~230)

「死の淵を見た男」を読みすすむと、最後の方に、
吉田昌郎氏の高校クラスメイトの証言が出てくるのでした。
そこは、こうでした。

「奈良市で寺院の住職を務めている杉浦弘道は、吉田と高校二年、三年と同じクラスだった。・・『・・たぶん高二の時だったと思いますが、・・・私は吉田に【おまえ、般若心経を知ってるか】と言われましてね。私はお寺の息子でありましたが、当時、それに背を向けていた人間だったんです。だから、お経なども何も知らなかったんですけど・・・彼は、般若心経をそらで覚えてて、私の前でスラスラと披露してくれました。びっくりしましたよ。高二ですからね。吉田はその頃から宗教的な面に関心がありましたね』
杉浦がこのことを思いだしたのは、吉田が震災の一年五か月後、2012年8月に福島市で開かれたシンポジウムにビデオ出演した際、現場に入っていく部下たちのことを、『私が昔から読んでいる法華経の中に登場する【地面から涌いて出る地涌菩薩】のイメージを、すさまじい地獄みたいな状態の中で感じた』と語ったことだ。これをネットで知った杉浦はこの時、ああ、吉田らしいなあ、と思ったという。
『ああ、吉田なら、命をかけて事態を収拾に向かっていく部下たちを見て、そう思うだろうなあ、と思ったんですよ。吉田の【菩薩】の表現がよくわかるんです。部下たちが、疲労困憊のもとで帰って来て、再びまた、事態を収拾するために、疲れを忘れて出て行く状態ですもんね。吉田の言う【菩薩】とは、法華経の真理を説くために、お釈迦さまから託されて、大地の底から湧き出た無数の菩薩の姿を指していると思うんですが、その必死の状況というのが、まさしく、菩薩が湧き上がって不撓不屈の精神力をもって惨事に立ち向かっていく姿に見えたのだと思います。そりゃもう凄いなあ、と思いましたねえ。部下の姿を吉田ならそう捉えたと思います。ああ、これは、まさしく吉田の言葉だなあ、と思ったし、信頼する部下への吉田の心からの思いやりと優しさを感じました』」(p347~348)


うん。この箇所を読めてよかった。
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心萎えた時。

2013-02-02 | 本棚並べ
平成23年の週刊文春3月31日号。
うん。古い週刊誌を取り出してきました。
まあ、なにげなくひろげたわけです(笑)。
そこに、文春図書館特別篇「苦難を乗り越える一冊」という
特集があったのでした。

瀬戸内寂聴さんは、「一遍上人語録」(岩波文庫)を
あげておりました。
それを引用しておこう、また週刊誌はどこかへ行ってしまうかもしれない。

「私は心萎えた時、道を見失ったかと迷う時、つい引き寄せているのが『一遍上人語録』です。時宗の開祖で、空也上人を心の師と仰いだ一遍は、師の『捨ててこそ』の思想を実践して、捨聖(すてひじり)と呼ばれています。踊念仏という派手なパフォーマンスで全国を遊行し、南無阿弥陀仏の六字名号を弘めていきました。一遍の法語、和歌、消息文などが集められたこの書は、どこを開いてもはっと心を打つ言葉がひそんでいます。・・・・」

うん。東日本大震災のあとに、方丈記を読み始め、それがいつのまにか一遍上人へとつながって読んでいたのですが、寂聴さんは、まっさきに指摘なさっておられたんだ。ということで、また一遍上人をと、本棚を見る。

この文春図書館特別篇には
佐々淳行氏も一冊をとりあげておりました。
「非情の海」ニコラス・モンサラット(至誠堂)

「第二次大戦時、英国海軍は死に物狂いで対独戦に臨み、大西洋で船団護衛を行った。本書はコルベット艦(コンパス・ローズ)のエリクソン艦長とロックハート副長の物語である。Uボートとの苦闘と地獄のような任務、そして指揮官としての苦悩や喜びが実によく描かれている。極寒のゴムボート上で疲弊した乗員に歌を歌わせ、士気を高めようとするなど、危機的状況における『指揮官心得』が盛り沢山で、いま災害現場で戦う隊員にもひしひしと感ずるところがあるはずだ。普段はだらしのない水兵が艦を守るために命を顧みず奮闘するなど、極限状況における人間模様も興味深い。戦記物というよりも、人間学的アンソロポロジーとして読める一冊である。」

こちらは、ちょうど
曽野綾子自伝「この世に恋して」(WAC)を読んでいると
p48~49にニコラス・モンサラット著「怒りの海」の吉田健一訳をとりあげている箇所があって印象深いページになっています。私は未読ですが、「非情の海」と「怒りの海」は訳による違いで同じ本のようです。古本屋へと「怒りの海」を注文。
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Fukushima 50

2013-02-01 | 本棚並べ
2011年3月11日の東日本大震災の報道で、
日本の報道では忘れられていた視点を提供してくれて、
驚きとともに、思い知らされたのは、
「Fukushima50」フクシマフィフティでした。
当時のことを知るブログを引用させてもらいます。

「地震発生後約800人いた作業員たちは、15日の4号機の火災の後750名が退避。
現在は50名が監視などの為に残り作業を続けています。各国メディアは彼らを『フクシマ フィフティ(Fukushima 50)』と呼び、「名も無い勇者たち」と称えています。
最前線で危険な作業をしているのは、東京電力の社員のほか、東電工業、東電環境エンジニアリング、ゼネコンの鹿島、そして原子炉を製造した東芝と日立のメーカーの社員たちです。・・・」


それが、どのような方々だったのかを調べられた本が
2012年12月に出ており、昨日読み終えました。
門田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」(PHP)。

テレビ報道は、ただただ政府発表を繰り返しいる最中、
Fukushima50の方々は、どのように行動していたのかを知る最良の一冊。
その方々は、どう思われていたのか
門田氏はあとがきで、こう指摘しておりました。
「私が最も驚いたのは、彼らがその行為を『当然のこと』と捉え、今もって敢えて話すほどでもないことだと思っていたことだ。」(p373)

本文からは、まずは、ここを引用しておきます。

「すでに、身体はぼろぼろになっていた。免震重要棟のトイレは、真っ赤になっていた、と伊沢は言う。『トイレは水も出ないから悲惨ですよ。流すこともできませんからね。みんなして仮設のトイレを運んできて、それが一杯になったら、また次の仮設トイレを組み立てながらやってましたけど、とにかく真っ赤でしたよ。みんな、血尿なんです。あとで、三月下旬になって、水が出るようになっても、小便器自体は、ずっと真っ赤でした、誰もが疲労の極にありましたからね』およそ六百人が退避して、免震重要棟に残ったのは『六十九人』だった。海外メディアによって、のちに【フクシマフィフティ】と呼ばれた彼らは、そんな過酷な環境の中で、目の前にある『やらなければならないこと』に黙々と立ち向かった。」(p278)

門田氏が、吉田昌郎氏への取材をした時期も重要でした。

「その吉田所長が私の取材に答えてくれたのは、食道癌の手術が終わって、脳内出血で倒れるまでの短い期間、2012年7月のことだった。」(p355)

こうして、貴重な一冊を読むことが出来るのでした。
読ませていただきありがとうございます。


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