和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

あっぱれ。

2013-07-16 | 朝日新聞
産経新聞を購読していると、
むしょうに朝日新聞を読みたくなる時がある。

今日7月16日の産経抄は
ブータンの「今月初めから価格が2倍以上も値上がりした家庭用ガス料金」から、話題がはじまって、「現在50基ある国内の原子力発電所のうち稼働しているのは、関西電力の2基だけ」と指摘しながら、参院選にふれているのですが、
一面コラムの最後の段に「あっぱれ」が登場するのでした。
そのコラムの終りを引用。

「・・確かに『節電』も、電力不足対策のひとつである。先週の朝日新聞で、論説委員がコラムで紹介している実践例には驚いた。暖房には火鉢を使い、夜はほとんど暗闇で過ごす生活で、震災後の電気代が千円を超える月はないそうだ。あっぱれ、というしかない。連日の猛暑を電気なしで乗り越える方法もぜひ、伝授してもらいたいものだ。ただ、本人も書いているように、すべてのユーザーが節電すれば原発は不要というのは、あまりに『子供じみた発想』だ。」

ありがたいことに、朝日の古新聞が今日とどきました。
その7月11日をひらくと、
社説の下にある「社説余滴」という署名文。
稲垣えみ子(社会社説担当)とあり、
題して『電気さん、ありがとう』。

うん。「あっぱれ」の中身を読みました。

こんな箇所があります。
「震災前、月の電気代は2千円台だった。そして今、千円を超える月はない。最低記録は702円。独身ならではの数字だが、大成功。」

うん。この「あっぱれ」が継続して、
本物の「あっぱれ」になることを期待したくなるなあ。
電気代はわかりましたが、ガス代については触れておられない。
ああそうか、ガス代は、原発依存とは関係ないのか。


それにしては、
「独身ならでは」とか
「進行中である」とか
「まずは自分が挑戦してみようと思った」とか
「私、日本を取り戻しました!と言いたい。」とか
最後は、
「そう考えるところから出発したい。」とあります。

うん。まだまだ出発前夜の民主党マニフェスト段階にあるように読めます。
これから、みごとな「あっぱれ」の継続を楽しめるでしょうか。

稲垣えみ子さんの、「あっぱれ」なこれからが気になります。
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かあいらしく。

2013-07-15 | 短文紹介
新刊の石井桃子著「家と庭と犬とねこ」(河出書房新社)は
うすいピンクのカバーなのでした。パラパラひらくと
はじめのほうに「都会といなか」という文。
文のはじまりは「戦争中や戦争がおわってすぐのころは・・」でした。

その文から引用。

「私は個人的なこのみからいって、いなかがすきだ。いなかはしずかだし、木があり、鳥がいる。戦争ににつかれてしまって、あっちへいったり、こっちへいったりしていたとき、ある日、白ユリの咲いている谷まに出た。『ここに住もう?』と、私はそのときいっしょにいた友人に言ったのだが、何ヵ月かたつと、ほんとにそこに住むことになってしまった。私が、日本の農村というところに住んだのは、それがはじめてだった。何もかも気にいった。骨のみしみしするほどの力仕事も苦しくなかった。里の花も鳥も、かあいらしく、友たちのように見えた。
それが、ある時、東京へ出た。なんて、ごみごみした、人のいっぱいいるところだろうと思った。ある婦人大会があるというので、友だちにつれられて、いってみた。いく人かの有名な人たちが、演説をした。さかんな拍手がおこった。聴集のなかからも、何人か飛び入りが出て、演説をした。みんなわざとらしかった。ただ気勢をあげるために、しゃべっているように思われた。感想を書けといって、紙をまわしてよこしたので、私は、『都会では、なんというわざとらしいことがおこなわれているのでしょう。鳥の声をきき、けものといっしょに暮らして来た者の耳には、みんなうそにきこえます。』と書いてだしたら、後になって、その大会をたたえた感想だけが読みあげられ、緊急動議が出、まえまえからつくってあったらしい緊急決議文が新しくきまった。私は、そらおそろしくなって、いなかに帰った。東京は、私の住むところではないと思った。
その私が、また東京に出て来たわけは、一つには、農村では、たべていけないからである。私は、友だちとふたりで、じぶんたちのつくった豆畑や、大根をながめながら、満足して、長嘆息した。『これで、たべていけたらねえ、これで、たべていけらねえ。』と、私たちは、くり返し、くり返し言ったのである。」(p24~25)
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木を立てる。

2013-07-14 | 地域
7月14日は、地区の神社の祭典。
「庭なぎ」と称して、氏子総代が
神社を掃除して、青年は
朝6時に集って、木を立てます。
その木に幟がはためく。

うん。私はギブスをしているので
今日は不参加(笑)。

いまごろは、皆で神輿の組み立てなどで
午前中が過ぎます。

さてっと、筑摩書房「新編柳田國男集」。
その第五巻は「日本の祭」「先祖の話」。
その「日本の祭」の自序は
こうはじまります。

「昭和16年の秋、東京の大学に全学会というものが設けられ、その教養部においていろいろの講義を聴くこととなった際に、自分は頼まれてこの『日本の祭』という話をした。聴衆は理工農医の襟章を附けた人が多く、文学部の学生はむしろ少なかった。・・現代の日本には小学校以来、一度もこういう講義を聴かないのはもちろん、問題としてこれを考えてみる機会をもたなかった人が、どうやら非常に多そうに思われる。・・・」

ここでは、「木を立てる」
という箇所を引用。

「祭場の標識に竿を建てるというだけは、ほとんと最初からの約束といっても誤りはない。独り日本のみでなく、いやしくも神が上空から降りたもうものと信じていた民族ならば、皆これを立てたのであろう。・・」(p44)

「祭には必ず木を立てるということ、これが日本の神道の古今を一貫する特徴の一つであった。そうしてその様式は、際限もなく変化している。」(p51「祭場の標示」)

「まだ幾つかの言うべき点を残したが、あまりに多岐にわたったから一応はここで纏まりを付ける。要するに日本の祭は、大となく小となく、都会と田舎、村の公けと家々の祭とを問わず、木を立てずして行なうもは今とても一つもない。・・・」(p76)

今年は神社の幟を見にいけないなあ(笑)。
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むやみなことを。

2013-07-13 | 短文紹介
竹山道雄の「ビルマの竪琴ができるまで」に、こんな箇所がありました。
「戦中は敗戦については知らされないし、戦後も戦争にふれることは一切タブーだし、われわれはずいぶん後になるまで、戦争についての具体的な事実は知りませんでした。実地のことは、さっぱり分りませんでした。」(新潮文庫・p197~198)

その竹山氏が、昭和30年以降に、ベルリン・モスクワと現地へ、いとわず出かけるのでした。
竹山道雄著「歴史的意識について」(講談社学術文庫)に
ベトナム戦争についてふれた語りがありました。

「・・・良識のある人は、ベトナム戦争においても北ベトナムのことはなかなかわからない。知らないから、判断を慎重にせざるを得ないと思うから、むやみな発言はしない。だが、運動を進める方はやっぱり知らないのだけれど、知らないままにむやみなことを言う。そうするとかなわない。残念ながら、デモクラシー社会では、短見な感情論の方がともすると勝つ。」(p108)

これは「人間は世界を幻のように見る」のなかにあるものでした。
この文の最後には、こんな箇所。

「ヒットラーは一国また一国と犯していったが、その度ごとに演説をして一言『平和!』と叫ぶと、人々は『さあ平和だ』と安心して、その憤激を忘れた。ミュンヘン会議でチェコを犠牲にして平和を保つと決定されたときには、イギリス人もフランス人も大歓呼の声をあげた。・・しかし、すぐ後に大戦争がおこった。
こういう歴史的経験は忘れられる。依然として、平和攻勢はもっとも有効な戦略である。
人々はただ目先の苟安(こうあん)しか考えない。やはり、『人間が歴史から学ぶことはただ一つ。それは人間は歴史からは何も学ばないということである』のだろうか?・・・」(p116~117)
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「甲乙丙丁」の竹山道雄。

2013-07-12 | 短文紹介
竹山道雄著「歴史的意識について」(講談社学術文庫)をめくっていたら、
「人間は世界を幻のように見る」の中に、こんな箇所

「中野重治が私について『甲乙丙丁』という本で次のように書いている。『・・・・この筆者は落ちついた筆を持っている。少しのことを、手際よく順序だてて諄々と説きあかすといったスタイルを持っている。説きあかすといっても説教じみてはいない。文章そのものが、言葉使も含めて上品でもあり、構成が論理的でもある。・・・・どっちにも片寄らぬ公正な立場、人間本位、人間を本位としての自由というところから書かれているが、そのままが人をいらいらさせるものに映ってくる。・・・その上その言分がまた筋が通っている。その優雅でさえある全体が、そのまま卑俗そのものとなる。しどろもどろになることがない。上等の御殿女中のように、あるのろさのテンポでしとやかな切り口上で相手を追いつめてゆく。それがまわりの俗衆に毒のある煽情となって波紋をひろげてゆく。云々』
中野氏は、私が論理的であり筋も通っていると認めているのだが、それがどうして『そのまま卑俗そのもの』になり『まわりの俗衆に毒のある煽情となる』のかは、説明していない。これではどうにも対話になりようがない。・・理性は抜きである。」(p65~66)

うん。引用の最後の中野重治氏による歴史的な独断を注意してとりのぞけば、
これは、見事な竹山道雄の文章の紹介となっているのでした。
ここだけでも、
まるで、竹山氏の文章に追いつめられてゆく中野重治がいる。そんな気がしてきます。
といっても、「甲乙丙丁」は未読。
そっちに脱線するよりも、
この夏、私は竹山道雄なんだ。
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後まわし。

2013-07-11 | 短文紹介
たまに、
「好物は後まわし、嫌いなものから先に食べる」という方がいらっしゃる。
平川祐弘氏の言葉に「ハングリー精神という言葉は飢えを体験していない世代には死語同然だろう」(p171)とあります。

これは、平川祐弘著「書物の声歴史の声」(弦書房)にありました。
この本、「熊本日日新聞」に週一回(千二百字ほど)で六年三か月の連載を一冊にしたものだそうです。
うん。ついつい「後まわし」にしたくなる一冊。

たとえば、
「私は、会議でも学会でも結婚式の披露宴でも、散漫な話を聞かされるのは大嫌いだ」(p181)とあります。そういう方が、いざ、散漫な文を書くかどうか?

この本の特色は「はじめに」で著者ご自身が書いております。
「人間多少自己中心的に調子に乗って書いてこそ筆も躍るのであろう。」
「人間、自己について語るのははしたない。しかし率直に細部を語らない限り、アカデミック・ライフの機微は伝わらない。」
「ひそかに思うのは東京のマスコミが流布したに過ぎない世間の説や常識とずれているところにも、私の説や知見の価値はひょっとしてあるのかもしれない。」


ああ、そうそう「後まわし」といえば、
文藝別冊・KAWADE夢ムックの新刊「山田太一」。
これ、魅力の一冊。
なみなみ注がれた盃に、こちらから口をもっていかないと、
言葉があふれて、こぼれ出してしまいそうなそんな一冊。
不用意にひらいてはいけません(笑)。

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風立ちぬ。

2013-07-10 | 短文紹介
今日は文芸春秋の発売日。
近所の本屋さんに届けてもらう。
でも、読んだのは一箇所だけ。
宮崎駿氏と半藤一利氏の対談
「『風立ちぬ』戦争と日本人」。
宮崎駿監督の最新映画(7月20日公開)を見ての対談。
それを読んでから、
あらためて、本棚から
宮崎駿著「本へのとびら」(岩波新書・2011年10月20日)をとりだす。
その新書の最後の章は「3月11日のあとに」と題しておりました。
この映画にふれながら、文ははじまっておりました。
そこははぶいて、この箇所を引用。


「風が吹き始めました。
この20年間、この国では経済の話ばかりしてきました。まるではちきれそうなほど水を入れた風船のようになっていて、前にも後にも進めない。何時破裂するのかヒヤヒヤしながら、映像やらゲームやら、消費行動やら、健康やら、犬を飼ったり、年金を心配したりして、気を散らしながら、けっきょく経済の話ばかりしてきました。不安だけは着々とふくらんで、20歳の若者も60歳も区別がつかなくなりました。
何かが起こるだろうという予感は、みなが持っていたように思います。それでも、どんなに立派な戦争より、愚かな平和のほうが尊いと思うようにしていました。
そして、突如歴史の歯車が動き始めたのです。
生きていくのに困難な時代の幕が上がりました。この国だけではありません。破局は世界規模になっています。おそらく大量消費文明のはっきりした終わりの第一段階に入ったのだと思います。」(p150~151)

うん。ここだけ引用しても何にもならないなあ。
対談を読んでいると、
「零戦や九六式艦上戦闘機などの名機を設計した堀越二郎という実在の人物を主人公に」(p95)して、「堀越二郎を堀辰雄の世界に送り込むという着想」へと言及しておりました。

お二人は一歳違い。
堀越二郎1903年生まれ。
堀辰雄は1904年生まれ。

ちなみに、
竹山道雄は1903年生まれ。
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)に
竹山道雄と堀辰雄の関係が数か所で語られております。
そのはじまりに
「国文科の堀辰雄は一年下であった。
堀もやはり四年修了で一高理乙にはいった。
堀は神西清ともっとも親しく、それで竹山とも親しくなった。堀は文転して国文科へ進んだが、震災で母を失くした。当時の堀は西洋に心酔しており国文学に興味を示さず、竹山が堀のために『紫式部日記』についてなど二つのレポートを手伝ってやったこともある。竹山の当時のペン・ネーム青木晋は堀が藤村『春』の作中人物から拾ってつけたものである。」(p53)

うん。この夏はジブリより竹山道雄。
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昭和29年ごろ。

2013-07-09 | 短文紹介
文藝春秋の「人と思想」シリーズ。
その一冊・竹山道雄著「時流に反して」(昭和43年)は
ご本人が選んだ文で成り立っております。

その「あとがき」は
「戦中から戦後に書いたものから選んで、この一冊にした。未曽有の変動の時期だったから、もともと世事にはうとい私にも、考え感じることがたくさんあった。それで、ここに収録されたものには、ほとんどみな時代の動きが影を投じている。」とはじまっておりました。

そして、各章ごとについて筆者の思いを書き添えておられました。
「白磁の杯」の章についてでは、「昭和29年ごろは集団ヒステリーの頂点だった」とあるのでした。

う~ん。昭和29年頃というのが気になります。
ということで、平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)をひらいてみるのでした。
キーワードは、「竹山は1955(昭和30)年2月、戦後はじめて国外に出・・」(p319)であり、
「戦後は1955(昭和30)年から竹山道雄は毎年のように海外へ長く出かけた。1964(昭和39)年までのわが国は外貨持出制限があり、先方からの招待がなければ出国できない時期が長く続いた。日本の一部でソ連邦の理想化や人民中国の理想化が行なわれたのは、その土地へ行く人が数少なかったからこそ生まれた幻影だったといってよい。それだけに竹山の例外的な体験は当時の日本人としてはまことに貴重であった。・・・著述家として世間に認められようとして時流に媚びることをしなかったからである。そのために時に日本国内の論壇では孤立しているかに見えたが、しかしそうであったからこそ、日本の負けに乗じて名をなした左翼知識人や評論家と違ったのである。反軍部、反ナチ、反スターリンと反全体主義で一貫しており、日米同盟の必要性を認めていたから安保反対などと甲高い叫びは発さなかった。戦前も戦中も戦後も、日本の大新聞の動向に左右されない数少ない知見の持主で、反軍部の人でありながら、東京裁判批判をいちはやく行なった。」(p331)

「竹山が戦後初めて渡欧するのは1955(昭和30)年だが、その前後、朝日新聞のヨーロッパ総局長森恭三は、次章でもふれるように、東ドイツ礼讃をしきりと流していた。社会主義勢力への思い入れがあって色眼鏡をかけて報道していたからである。その左翼報道人の錯誤はベルリンの壁崩壊以後は明らかになってしまったが、いまなお存外知られていないのは、日本と自由世界を結ぶべき報道関係者のたよりなさである。・・・」(p343)


ここで、もう一度「時流に反して」(文藝春秋)のあとがきをひらくと、
『ベルリンにて』という文を掲載したことについて、書かれております。

「戦後日本のマスコミは赤一色に塗りつぶされたが、実地の実体を知りたいと大いに願っていた。ようやく昭和30年にベルリンに行くことができ、東西関係をしらべた。『ベルリンにて』はかなり骨を折って作った文章だが、その後ベルリンの壁もできたことだし、もう一般の常識になっていることと思って、それを新潮社の文庫本『ヨーロッパの旅』にも入れなかった。ところが、どうも人々はそれほどこの事実を知っていないと思われるので、この本に再生させた。・・・」


うん。これで竹山道雄への興味が、ますます深まるのでした。
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古いシナの白磁の杯。

2013-07-08 | 前書・後書。
竹山道雄著「時流に反して」(文藝春秋・「人と思想」シリーズ)にある
「白磁の杯」を読む。
そのはじまりは
「どういうわけか私は夏休みになると、古いシナの本が読みたくなります。むしあつい気温の中には、何かわれわれの空想をそそって、遠い古い世界へと誘うものがあるようです。」

「そして、私はちかごろ、一つの古いシナの白磁の杯を見ました。・・・これは北シナの子牙河(しがか)のほとりの鉅鹿(きょろく)というところから出たものだそうです。ここはこのような白磁の名産地だったということです。
友人は説明してくれました。
『この鉅鹿という町は、宋の徽宗皇帝の大観三年(いまから八百四十五年前)に、洪水のために埋ってしまいました。このことは宋の歴史にも記載されているのですが、町のものはすっかりなくなって忘れられていました。それが、近年になってこの地方に日照りがあって、井戸を掘ったところが、地下からむかしの町がでてきました。往来も家も当時のままです。人も寝床にねたままの姿です。よほど急な洪水だったと見えて、逃げる暇もなかったのでしょう。こういう陶器類はそこでの日常品だったのです。・・・』」

そのあとに、作者は、この物語を語るきっかけにふれておりました。

「これをきいて、私はふしぎに思いました。
『いくら急な洪水だといっても、人々が寝床にねたままでいたというのは、おかしいなあ。起き上がるのがめんどうくさかったのかしらん。・・・』・・この話は私の空想をそそりました。・・・・イタリアのポンペイの遺跡からも寝たままの人間が掘りだされたということですが、あれは火山の噴火が原因だったのですから、人々は急な毒ガスのために瞬時に死んでしまったのでしょう。それとも、一つの町がすっかりほろびるような異変がおこるときには、何か特別な事情があって、人間は安らかに眠りつづけたままで屍になるのでしょうか・・・?』」

「この空想がだんだんとつもって、一つのお話になりました。」


うん。読みすすむと、
民主党が政権を取っていた際に、
「コンクリートから人へ」と主張して、防災へのカネを減らせば、財源が潤うのだという語りかけを思い浮かべながら読みました。

ちなみに、竹山道雄著作集に入っている『白磁の杯』には「あとがき」がありませんでした。「時流に反して」にある『白磁の杯』には「あとがき」があります。

その「あとがき」も紹介。
はじまりは、

「これは『新女苑』に昭和29年から30年にかけて連載したものである。・・・安倍能成先生が読んでくださって、『新女苑の読者には分らんだろう』と笑われた。」
とあります。
「あとがき」で気になったのは
「昭和29年は、集団妄想の年だった。人間の認識というものはじつにふしぎなものだ、という感に堪えなかった。・・」という箇所があったことでした。
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松葉杖生活。

2013-07-07 | 地域
松葉杖を2本。
右左一本ずつ。
すると、本は持てない。
しかたがないので、
ショルダーバックに
数冊の本を入れての移動。

昨夜は、
神輿の歌の練習日。
7月14日当日は担げないので、
せめて、こういう時はと出席。
うん。ビールを飲んで帰る(笑)。
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時流に。

2013-07-06 | 前書・後書。
以前に注文してあった古本が今日届く。

文芸春秋「人と思想」シリーズの一冊。

竹山道雄著「時流に反して」

佐藤書房(東京都八王子市東町)
525円+送料200円=725円。
先払いでした。


この本のあとがきの最後に

「今度の日本の戦争はいかにもふしぎだったから、私は戦後にその実体を知りたいと思って、現代史家の説明を読んだ。そのころには、この主題をあつかっていたのは、まだ左翼学者だけだった。それを読んで、私は真に唖然とした。そして、戦後十年に、自分なりにあの歴史の過程を再構成してみた。・・・・時流は一つの大きな権力である。いまは政府に盾をついても無事だが、時流の前には多くの人々が叛骨も野党精神もすてて、ひれふす。私はそれだけはしなかったし、これからもしない積りである。」

そういえば、
平川祐弘著「書物の声歴史の声」(弦書房・2009年)に
外国特派員の偏向報道(P200~201)という文があったなあ。
そこから引用。

「・・・京都で人文研に取って代わったのは、梅原猛が初代所長としてリードした国際日本文化研究センターである。もっともそこも成立時の熱気は失せたが、1980年代半ばから20年ほどは大活躍した。しかしその日文研も創設当時は『朝日新聞』に猛烈な悪口を書かれた。朝日記者からみれば日文研は右寄りの学者が集まったとみられたからだろうか。すると『ニューヨーク・タイムズ』も似た悪口を書いた。日文研もさずがに放置できず、抗議文を送ろうと同社の東京オフィスの住所を調べたらなんと朝日新聞社内で『これでは同じ意見になるのも無理はない』と呆れて抗議する気力も失せたという。
しかし国際ジャーナリズムの世界でこうした左翼ネットワークが出来上がると・・・日本の政治家の発言がことごとく歪められて海外へ報道されたりする。・・・」


うん。ちょっと気になる方は
「ニューヨーク・タイムズ」の東京オフィスを検索して、
それと、朝日新聞社の東京の住所地図と照合してみる。
うん。これなら、NIE(教育に新聞を)の
小中学生の検索問題にしてみてもいいかもしれない。
そして討論すると、
朝日新聞とニューヨーク・タイムズの東京オフィスが
同じ住所なので、これは権威があるのだという
意見が当然でてくるだろうなあ。

けれども、唖然として、呆れる一人に
あなたも、加わっていただきたいと思うのでした。
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アキレス腱?

2013-07-04 | Weblog
昨日、運動中に左足首が痛くなる。
横から、誰かにぶつけられたような、蹴られたような感じで、
振り返るとだれもいない。勘違いかなあと、
左足かかとを床につけると、
左足の感覚が、床が歪んでいるような感触。

とりあえず、運転して帰る。
今日、接骨院へゆくと
足首をさわっただけで、これは
アキレス腱断裂。

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「周五郎伝」の序章。

2013-07-02 | 前書・後書。
齋藤愼爾著「周五郎伝」(白水社)の序章は
まず、吉本隆明「マチウ書試論」の引用をしたあとに
こうはじまっておりました。

「学恩という言葉がある。
手元の辞書を引くと、
『師と仰ぐ人から受けた学問上の恩』とある。
書物を読んで、魂を根柢から揺るがされ、
決定的な転位を予感したということで、
私にとって山本周五郎の作品こそが、
学恩の意味するものに最もふさわしい気がしてならない。」

こうしてはじまる500頁ほど。
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学恩というのは。

2013-07-01 | 前書・後書。
竹山道雄著作集(福武書店)全8巻。
各巻の解説と月報とを、とりあえず見る。
ちなみに、この古本の本文はきれい、読まれなかったような感じ。
ですが、解説と月報に、さりげなく、4箇所の線引きがありました。
なんだか、それだけ読んだようで、今の自分と重ねてしまいます(笑)。

5巻月報の、会田雄次氏の文が印象深い。
ということで、そこから引用。
はじまりはこうです。

「古い話になる。私は今度の大戦で20歳代の後半を、歩兵一兵卒としてビルマで戦い、部隊がほぼ全滅した状況下で敗戦を迎え、以後英軍の収容所で、その強制労働に服した。」

会田氏の文の最後も引用。

「『ビルマの竪琴』は読んでいた。しかし、上のような経験を持つ私にはこれはきれいごとに過ぎて共感できなかった。それ以外はいそがしさにとりまぎれ『心』などの論文をかいま見る程度だった。味読まで行かなかったのは今から考えて痛痕の至りである。ただ、このような進歩主義の大合唱の中で、このような人が居られるのかと教示を受けるとともに共感と安堵を感じたものである。
この『剣と十字架』はどういうことか先生から贈っていただいたのだが、私の年来の疑問に大きな光明を与えるものであった。・・・・・・それ以来私は熱心な竹山先生の読者になった。私はすぐれた著作はできる限り咀嚼し、みだりに引用などせず、ひたすら骨肉化することに努力している。そういうことで私の今日の思考にはずい分、竹山『学説』が入っているはずである。学恩というものはそういうものだと私は信じている。」


うん。まずはさっそく、
本棚に会田雄次著「アーロン収容所」をさがす。
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