今日は、旧暦でいえば、端午の節句(5月5日)。
日本は明治5年、それまでの太陽太陰暦(太陰暦)を太陽暦(グレゴリオ暦)にしました。「明治5年12月3日を明治6年1月1日にする」という太政官布告によっていっきに太陽暦に移行したわけです。これでわかる通り、もうすでに旧暦と25日以上の差が出てきたわけですね。それがいまだに尾を引いていて、今日・6月11日が旧暦の5月5日と、もうすでに1月以上も差が出てしまいました。でも心配することはなく、旧暦ではいろいろ知恵を用いて修正していますので、2ヶ月も3ヶ月も差が開くことはあり得ません。
日本の伝統・風習は旧暦に基づくものが多いので、天然・自然の推移と実際とが大きく違うことになってしまった。夏至や冬至は今の暦と同じでしょうが、お盆、これは大きく違うし、お正月(元旦)も大きく違ってしまいます。そう、春秋のお彼岸のお中日はどうだったのでしょうか。
もともと太陰暦は、実際の季節の移り変わり(特に農作業などに関わっては)と齟齬が生じやすいものでしたから、閏月だとか色々工夫をしてもまだまだ実際と違うことになる。そこで、中国から取り入れた「24節気」をもとにした生活のほうが、実際の生活にあっていました。この24節気のほうは、今の暦の進み方とそう大きく変わらないようですね。そうして、昔から日本人は、生活実感と暦とをうまく組み合わせて、生活していたというわけです。古歌でも「年の内に春は来にけり去年とや言はん今年とや言はん」などと、暦の上で年が明ける前に立春(24節気のひとつ)を迎えた場合を歌っています。
ところで、五月雨とか五月晴れなどというのも、今とは違います。五月雨は、今の梅雨のことですし、五月晴れは、じめじめした梅雨の合間に晴れた日の素晴らしさをいいました。今のゴールデンウイークの晴れた日などを言うのではなかったのですね。新聞でも、今や5月の澄んだ青空をさしてしまうようになりましたが。
こうした生活風習のだいたいは、京都の地の自然環境・お公家さんたちの生活意識が反映されたものが多く、今の東京中心の生活感覚ではありません。なにしろ荒戎(あらえびす)にすぎませんから、当時の関東地方は。まさに「文化果つる」地であったのです。まして東北などは、眼中にありませんでした。(ちょっと話題がそれますが、降りみ降らずみの「時雨(しぐれ)」なども、京都地方特有の通り雨のような気がします。)
それにしても、明治5年。明治維新から5年。なんでもかんでも大変化の年に、一気呵成にこうした荒業をやってのけるところに、明治という時代のすごさがありますね。ちなみに、この年の12月はわずか2日しかなかったわけで、いきなり明治6年元旦です。役人はあわてたでしょうね、なにしろ12月分の給料は出なかったんですから。
一説によると、まだまだ財政基盤の弱かった明治新政府が、役人の12月分の給料を払わなくて済むようにしたためだという。いつの時代も大変化というのは、一気に有無を言わせずやるしかないのですかね。
でも、そのため、今もこうして、旧暦とのすれ違いを有形無形に感じているのですが。
日本は明治5年、それまでの太陽太陰暦(太陰暦)を太陽暦(グレゴリオ暦)にしました。「明治5年12月3日を明治6年1月1日にする」という太政官布告によっていっきに太陽暦に移行したわけです。これでわかる通り、もうすでに旧暦と25日以上の差が出てきたわけですね。それがいまだに尾を引いていて、今日・6月11日が旧暦の5月5日と、もうすでに1月以上も差が出てしまいました。でも心配することはなく、旧暦ではいろいろ知恵を用いて修正していますので、2ヶ月も3ヶ月も差が開くことはあり得ません。
日本の伝統・風習は旧暦に基づくものが多いので、天然・自然の推移と実際とが大きく違うことになってしまった。夏至や冬至は今の暦と同じでしょうが、お盆、これは大きく違うし、お正月(元旦)も大きく違ってしまいます。そう、春秋のお彼岸のお中日はどうだったのでしょうか。
もともと太陰暦は、実際の季節の移り変わり(特に農作業などに関わっては)と齟齬が生じやすいものでしたから、閏月だとか色々工夫をしてもまだまだ実際と違うことになる。そこで、中国から取り入れた「24節気」をもとにした生活のほうが、実際の生活にあっていました。この24節気のほうは、今の暦の進み方とそう大きく変わらないようですね。そうして、昔から日本人は、生活実感と暦とをうまく組み合わせて、生活していたというわけです。古歌でも「年の内に春は来にけり去年とや言はん今年とや言はん」などと、暦の上で年が明ける前に立春(24節気のひとつ)を迎えた場合を歌っています。
ところで、五月雨とか五月晴れなどというのも、今とは違います。五月雨は、今の梅雨のことですし、五月晴れは、じめじめした梅雨の合間に晴れた日の素晴らしさをいいました。今のゴールデンウイークの晴れた日などを言うのではなかったのですね。新聞でも、今や5月の澄んだ青空をさしてしまうようになりましたが。
こうした生活風習のだいたいは、京都の地の自然環境・お公家さんたちの生活意識が反映されたものが多く、今の東京中心の生活感覚ではありません。なにしろ荒戎(あらえびす)にすぎませんから、当時の関東地方は。まさに「文化果つる」地であったのです。まして東北などは、眼中にありませんでした。(ちょっと話題がそれますが、降りみ降らずみの「時雨(しぐれ)」なども、京都地方特有の通り雨のような気がします。)
それにしても、明治5年。明治維新から5年。なんでもかんでも大変化の年に、一気呵成にこうした荒業をやってのけるところに、明治という時代のすごさがありますね。ちなみに、この年の12月はわずか2日しかなかったわけで、いきなり明治6年元旦です。役人はあわてたでしょうね、なにしろ12月分の給料は出なかったんですから。
一説によると、まだまだ財政基盤の弱かった明治新政府が、役人の12月分の給料を払わなくて済むようにしたためだという。いつの時代も大変化というのは、一気に有無を言わせずやるしかないのですかね。
でも、そのため、今もこうして、旧暦とのすれ違いを有形無形に感じているのですが。
