コイズミさん、終戦60年を迎えた今年は、各地の「戦争慰霊祭」へ積極的に出席している。硫黄島にも出かけた。これからは沖縄、広島、長崎(どちらかになる場合も)と出席する予定のようだ。60年のけじめとしての意識が働いているのだろうか。
世間では、死後50年前後が大きな区切り。仏教においても追善法要(50回忌・死後49年目に当たる)も一応はこれで一段落となる。よほどの功績者などでない限り、後は「〇〇家先祖代々」の一員という扱いになる。神道の場合は、一人ひとりが神になったのだから、一括りで神様という風にはならないかも知れないが、それでも、没後50年でその子供や孫としての勤めを終了するのが通例。60年は特に大きな区切れの年ではないはず。還暦が60だから、生きている人にとっては意味があろうが。
だから、コイズミさんの積極的な出席には、重大な意図があるのはみえみえだろう。ずばり、8月15日の靖国神社参拝である。それも内閣総理大臣としての「公式参拝」を実現するつもりなのではないか。これだけ、国内からも批判が多く出されている中で、いまだに靖国に固執する態度は尋常ではない。まさに「確信犯」なのだ。
8月15日、恒例の「戦没者追悼式典」が天皇・皇后を迎えて開かれる。それで終わりということでは、彼の宗教的信念・政治的信念はおさまらない。そういうコイズミさんに、他の閣僚も議員も唯々諾々としているだけなのだろうか。国家的な戦没者のための施設などは、彼の眼中には全くない。靖国神社がすべて、他を持って代え難しの存在なのだ。
しかし、靖国神社には、民間の戦争犠牲者は祀られず、戦争で死亡した軍人だけが(国の守り神としての)「神」として祀られている。A級戦犯のうち、東条英機などは純粋の戦没者ではなく、東京裁判での死刑判決により、処刑された人物だ。
その人物たちを神として祀ることで、東京裁判は不当な裁判で、その不当な判決によって不合理にも処刑された被害者である、との認識が靖国神社の考えにはある。その宗教的信条に、コイズミさんは時の内閣総理大臣として100%同意し、深い国家的意義を感じていることにほかならないのだ。
靖国神社とは戦争でなくなった兵士の霊をなぐさめる神社であって、一般的に平和を誓う目的は靖国神社そのものにはない、ということを知った上で、コイズミさんは堂々と参拝する。外交も内政も関係がない、これがコイズミ改革の集大成だ。
世間では、死後50年前後が大きな区切り。仏教においても追善法要(50回忌・死後49年目に当たる)も一応はこれで一段落となる。よほどの功績者などでない限り、後は「〇〇家先祖代々」の一員という扱いになる。神道の場合は、一人ひとりが神になったのだから、一括りで神様という風にはならないかも知れないが、それでも、没後50年でその子供や孫としての勤めを終了するのが通例。60年は特に大きな区切れの年ではないはず。還暦が60だから、生きている人にとっては意味があろうが。
だから、コイズミさんの積極的な出席には、重大な意図があるのはみえみえだろう。ずばり、8月15日の靖国神社参拝である。それも内閣総理大臣としての「公式参拝」を実現するつもりなのではないか。これだけ、国内からも批判が多く出されている中で、いまだに靖国に固執する態度は尋常ではない。まさに「確信犯」なのだ。
8月15日、恒例の「戦没者追悼式典」が天皇・皇后を迎えて開かれる。それで終わりということでは、彼の宗教的信念・政治的信念はおさまらない。そういうコイズミさんに、他の閣僚も議員も唯々諾々としているだけなのだろうか。国家的な戦没者のための施設などは、彼の眼中には全くない。靖国神社がすべて、他を持って代え難しの存在なのだ。
しかし、靖国神社には、民間の戦争犠牲者は祀られず、戦争で死亡した軍人だけが(国の守り神としての)「神」として祀られている。A級戦犯のうち、東条英機などは純粋の戦没者ではなく、東京裁判での死刑判決により、処刑された人物だ。
その人物たちを神として祀ることで、東京裁判は不当な裁判で、その不当な判決によって不合理にも処刑された被害者である、との認識が靖国神社の考えにはある。その宗教的信条に、コイズミさんは時の内閣総理大臣として100%同意し、深い国家的意義を感じていることにほかならないのだ。
靖国神社とは戦争でなくなった兵士の霊をなぐさめる神社であって、一般的に平和を誓う目的は靖国神社そのものにはない、ということを知った上で、コイズミさんは堂々と参拝する。外交も内政も関係がない、これがコイズミ改革の集大成だ。