おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

郷愁または蛍について

2005-06-06 21:05:09 | つぶやき
 先日、静岡に出かけたとき、50年前の話を聞いた。それは、田んぼでの一仕事を終えて家路をたどるその道すがら、蛍が辺り一面に乱舞している、その様についてであった。
 農作業に疲れた目の前に、無数の蛍が淡い光を放って飛び交う様、その中を歩む姿は、まるで夢幻の境地であったという。今は、蛍一匹いなくなったという。
 静かなせせらぎと田んぼの風情は、その当時とそれほど変わってはいないらしい。しかし、農薬のせいであっという間にいなくなってしまった蛍。「ほ、ほほたる来い、こっちの水はあまいぞ」その通りの静かな田園風景は、見た目はそう変わらなくても、自然の営みの奥底で、大きく変化してしまったのだろう。
 千葉県の利根川から少し山間に入った連れあいの実家。25年ほど前、その爺さん、婆さんに会わせるため、二人の子どもを連れて行ったことがある。その時にも、実家の前の田んぼには、蛍がたくさん舞っていた。二人の子どもは田んぼに下りて、蛍を追いかけてしばし興奮していた。
 今はもちろん、もう全くいなくなってしまった。すっかり大きくなった子どもたちに、その日の体験を聞いても、うっすらと覚えている程度だ。田んぼにいたタニシもすっかりいなくなったらしい。田園風景はほとんど25年前と変わらないが。
 今の子どもたち、いや、結構な大人でも都会に住む人々は、すでに蛍を見る機会などとうになくなってしまった。そうした中で、江戸川区の親水公園では、蛍が棲めるきれいなせせらぎを取り戻そうと蛍の飼育に取り組んでいる。しかし、それは、まさに人工飼育に他ならない。一歩、そこを出れば、都会の臭いと空気に満ちている。
 小生のような年齢になると、郷愁イコール故郷の自然、豊かな自然を思い出す。それを今の子どもたち、次世代の子どもたちに話し聞かせても、ほとんどの子どもがその豊かなイメージをつかむことはできない。これは都会の子どもたちに限ったことだろうか。
 夜空の天の川もしかりだ。見たこともない人が圧倒的。人工衛星が飛行するのも見えると言っても、ほとんど信用されない。
 今の都会の子どもたちが大人になったとき、彼らにとっては「郷愁」という言葉から、いったい何を思い浮かべるだろうか。 
コメント (2)
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