JR日暮里駅南口を出て、谷中墓地を通り抜け、五重塔跡から寛永寺坂駅跡、寛永寺、上野公園、博物館動物園駅跡に立ち寄り、京成上野駅から日暮里へ戻る。谷中墓地から上野のお山を一巡り。坂あり、階段あり、名所・旧跡ありで、ちょっと充実した散歩道。見学時間を入れればもっとかかるが、約2時間。案内板も要所要所にあって、迷うところもなさそう。初夏の新緑がまぶしい行程です。
トップの写真は、五重塔跡。
谷中の天王寺五重塔。1644(正保元)年に最初の五重塔は完成したが、1771(明和9)年目黒行人坂の火事で焼失し、19年後の、1791(寛政3)年に近江国高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された。このときのことは、幸田露伴の「五重塔」として知られている。
総ケヤキ造りで高さ11丈2尺8寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災、戦災にも遭遇せず、谷中のシンボルになっていたが、1957(昭和32)年7月6日、放火により焼失した。焼け跡から男女の遺体が発見された。不倫の精算のためだったという。現在は、礎石が残っているだけである。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石などすべて花崗岩。
もとは、日蓮宗感応寺と称した。奈良時代からの古寺・浅草寺と幕府の寺・寛永寺の五重塔に負けじと五重塔を建てた。出来た頃は、将軍家光に大いに保護されていたが、1699(元禄12)年、この寺が日蓮宗の中でも過激な、不受不施派(他の宗派からは施しを受けない、施しをしない)の根城だったことから、幕府から邪宗だとして弾圧され、僧侶は流刑に処され、寺は寛永寺の管轄に置かれ、天台宗に改宗させられた。寺名が天王寺に改名されるのは、1833(天保4)年。
意外に狭い敷地。掲示されていた写真。
その先あたりから見えるスカイツリー。新時代の超高層の塔。634㍍の中心柱の構想は、五重塔の柱と同じ考えだとか。
京成電車がJR線を越えて上野の山のトンネルに入っていく。これから終点・京成上野駅までは地下線となる。
トンネルの上は、すぐそばから民家が建ち並んでいる。
寛永寺坂駅跡。右手は言問通りに面している。駅舎がそのまま保存されている。
寛永寺坂駅(かんえいじさかえき)は、博物館動物園駅とともに、日暮里駅 - 京成上野駅間の地下線に設けられていた地下駅だった。
1933(昭和8)年、京成電鉄が日暮里 - 上野公園(現京成上野)間の地下線を完成させた時、トンネルの入口付近に設けられた。寛永寺の近くにあったため、駅名となった。戦後、一時営業を再開したが、戦後間もなくの鉄道車両の性能・整備状況及び保線状況では急勾配上にある当駅(「寛永寺坂」という急坂がJR線方向に落ちている。)からの発着が困難であり、運行上の危険が生じたことによる保安上の観点と、利用客が見込めないため、廃止になったという。
駅のあった場所は、上野桜木二丁目交差点付近。跡地は京成電鉄が現在もそのまま保有し、駅舎と駅前広場は「台東倉庫」という倉庫会社に貸し出されている。地下部分(地下線出入口の至近に位置する)は、ホームは取り壊されたものの空間と木の壁は残っており、通行する電車内からも確認できる、下り線側のホーム跡には階段も確認でき、その入口には右書きで「口出」と書かれた案内表示も残っている、とのこと。帰りの車中で目をこらして見ていたが、残念ながらまったく確認できなかった。何しろトンネルを猛スピードで走り抜けるのですから。
「国旗掲揚塔」跡。コンクリートの土台部分が残っている。それによれば、紀元2600年・昭和16年12月8日(時あたかも、真珠湾攻撃の日)に建立となっている。まさにそこにも記されているように「国威発揚」の時代であった。
トップの写真は、五重塔跡。
谷中の天王寺五重塔。1644(正保元)年に最初の五重塔は完成したが、1771(明和9)年目黒行人坂の火事で焼失し、19年後の、1791(寛政3)年に近江国高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された。このときのことは、幸田露伴の「五重塔」として知られている。
総ケヤキ造りで高さ11丈2尺8寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災、戦災にも遭遇せず、谷中のシンボルになっていたが、1957(昭和32)年7月6日、放火により焼失した。焼け跡から男女の遺体が発見された。不倫の精算のためだったという。現在は、礎石が残っているだけである。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石などすべて花崗岩。
もとは、日蓮宗感応寺と称した。奈良時代からの古寺・浅草寺と幕府の寺・寛永寺の五重塔に負けじと五重塔を建てた。出来た頃は、将軍家光に大いに保護されていたが、1699(元禄12)年、この寺が日蓮宗の中でも過激な、不受不施派(他の宗派からは施しを受けない、施しをしない)の根城だったことから、幕府から邪宗だとして弾圧され、僧侶は流刑に処され、寺は寛永寺の管轄に置かれ、天台宗に改宗させられた。寺名が天王寺に改名されるのは、1833(天保4)年。





寛永寺坂駅(かんえいじさかえき)は、博物館動物園駅とともに、日暮里駅 - 京成上野駅間の地下線に設けられていた地下駅だった。
1933(昭和8)年、京成電鉄が日暮里 - 上野公園(現京成上野)間の地下線を完成させた時、トンネルの入口付近に設けられた。寛永寺の近くにあったため、駅名となった。戦後、一時営業を再開したが、戦後間もなくの鉄道車両の性能・整備状況及び保線状況では急勾配上にある当駅(「寛永寺坂」という急坂がJR線方向に落ちている。)からの発着が困難であり、運行上の危険が生じたことによる保安上の観点と、利用客が見込めないため、廃止になったという。
駅のあった場所は、上野桜木二丁目交差点付近。跡地は京成電鉄が現在もそのまま保有し、駅舎と駅前広場は「台東倉庫」という倉庫会社に貸し出されている。地下部分(地下線出入口の至近に位置する)は、ホームは取り壊されたものの空間と木の壁は残っており、通行する電車内からも確認できる、下り線側のホーム跡には階段も確認でき、その入口には右書きで「口出」と書かれた案内表示も残っている、とのこと。帰りの車中で目をこらして見ていたが、残念ながらまったく確認できなかった。何しろトンネルを猛スピードで走り抜けるのですから。
