おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

谷中・天王寺五重塔跡、京成電鉄本線寛永寺坂駅跡。

2012-05-14 20:29:03 | 鉄道遺跡
 JR日暮里駅南口を出て、谷中墓地を通り抜け、五重塔跡から寛永寺坂駅跡、寛永寺、上野公園、博物館動物園駅跡に立ち寄り、京成上野駅から日暮里へ戻る。谷中墓地から上野のお山を一巡り。坂あり、階段あり、名所・旧跡ありで、ちょっと充実した散歩道。見学時間を入れればもっとかかるが、約2時間。案内板も要所要所にあって、迷うところもなさそう。初夏の新緑がまぶしい行程です。
 トップの写真は、五重塔跡。 
 谷中の天王寺五重塔。1644(正保元)年に最初の五重塔は完成したが、1771(明和9)年目黒行人坂の火事で焼失し、19年後の、1791(寛政3)年に近江国高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された。このときのことは、幸田露伴の「五重塔」として知られている。
 総ケヤキ造りで高さ11丈2尺8寸(34.18メートル)は、関東で一番高い塔であった。明治41年(1908)6月東京市に寄贈され、震災、戦災にも遭遇せず、谷中のシンボルになっていたが、1957(昭和32)年7月6日、放火により焼失した。焼け跡から男女の遺体が発見された。不倫の精算のためだったという。現在は、礎石が残っているだけである。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石などすべて花崗岩。
 もとは、日蓮宗感応寺と称した。奈良時代からの古寺・浅草寺と幕府の寺・寛永寺の五重塔に負けじと五重塔を建てた。出来た頃は、将軍家光に大いに保護されていたが、1699(元禄12)年、この寺が日蓮宗の中でも過激な、不受不施派(他の宗派からは施しを受けない、施しをしない)の根城だったことから、幕府から邪宗だとして弾圧され、僧侶は流刑に処され、寺は寛永寺の管轄に置かれ、天台宗に改宗させられた。寺名が天王寺に改名されるのは、1833(天保4)年。
意外に狭い敷地。掲示されていた写真。
その先あたりから見えるスカイツリー。新時代の超高層の塔。634㍍の中心柱の構想は、五重塔の柱と同じ考えだとか。
京成電車がJR線を越えて上野の山のトンネルに入っていく。これから終点・京成上野駅までは地下線となる。
トンネルの上は、すぐそばから民家が建ち並んでいる。
寛永寺坂駅跡。右手は言問通りに面している。駅舎がそのまま保存されている。
 寛永寺坂駅(かんえいじさかえき)は、博物館動物園駅とともに、日暮里駅 - 京成上野駅間の地下線に設けられていた地下駅だった。
1933(昭和8)年、京成電鉄が日暮里 - 上野公園(現京成上野)間の地下線を完成させた時、トンネルの入口付近に設けられた。寛永寺の近くにあったため、駅名となった。戦後、一時営業を再開したが、戦後間もなくの鉄道車両の性能・整備状況及び保線状況では急勾配上にある当駅(「寛永寺坂」という急坂がJR線方向に落ちている。)からの発着が困難であり、運行上の危険が生じたことによる保安上の観点と、利用客が見込めないため、廃止になったという。
 駅のあった場所は、上野桜木二丁目交差点付近。跡地は京成電鉄が現在もそのまま保有し、駅舎と駅前広場は「台東倉庫」という倉庫会社に貸し出されている。地下部分(地下線出入口の至近に位置する)は、ホームは取り壊されたものの空間と木の壁は残っており、通行する電車内からも確認できる、下り線側のホーム跡には階段も確認でき、その入口には右書きで「口出」と書かれた案内表示も残っている、とのこと。帰りの車中で目をこらして見ていたが、残念ながらまったく確認できなかった。何しろトンネルを猛スピードで走り抜けるのですから。
「国旗掲揚塔」跡。コンクリートの土台部分が残っている。それによれば、紀元2600年・昭和16年12月8日(時あたかも、真珠湾攻撃の日)に建立となっている。まさにそこにも記されているように「国威発揚」の時代であった。

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読書「厩橋」(小池昌代)角川書店

2012-05-13 20:33:55 | 読書無限
 今年の2月に発刊されました。「東京スカイツリー」にまつわる物語です。
 いよいよ一般公開間近のスカイツリー。公開日を待たずに、すがすがしい青空の下、今日も大勢の観光客でスカイツリーをめぐる浅草通り、曳舟川通り、言問通り界隈は、賑わっています。
 これまでも、これから先もスカイツリーに関わる物語は実際の工事のようす、関係者の苦労、地元の期待・・・、何よりも、工事計画の発表、まったくの更地から徐々に立ち上がり、634㍍に至りまでの写真、ビデオ、人々の声、様々な感想、思いなど数限りなく出版されるでしょう。 毎朝、毎夕、通勤で、所用で、このツリーの真下を行き来していた多くの人々、その中の一人でもあった小生。それぞれに編み出された、それぞれのドラマがきっとあったことでしょう。
 この小説。生活の場であるマンションの一室いつから見上げれば、いつも出来上がりつつあるスカイツリーの成長を見ることのできる親子3人の物語です。天空を突き上げる電波塔と隅田川に架かる厩橋。他の橋に比べて、蔵前橋と駒形橋に挟まれた地味なイメージの橋(スカイツリー見物には、吾妻橋、言問橋、そして駒形橋?)。登場人物たちの日常生活に密着した厩橋にも、深い思いを寄せる物語。そこに、一人の(三者三様)人生の来し方行く末が語られます。その重要な狂言回しとしての樋口一葉の「にごりえ・たけくらべ」。これらをからませて物語を紡いでいきます。
 作者の、下町・地元生まれゆえの土地への愛着に裏付けられた、詩人らしい五感の働きを利かせた語り口は見事でした。
蝶の絵と厩橋の絵柄。蝶も厩橋も、ストーリーの展開の上で、隠喩の働きをしています。
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読書「大正大震災ー忘却された断層」(尾原宏之)白水社

2012-05-10 22:12:29 | 読書無限
 1923(大正12)年9月1日関東地方を襲った「関東大震災」。筆者によれば、この言い方が一般化したのは、戦後であった、と。
 ここ10年ばかりの間に、日本は、東日本大震災、阪神淡路大震災と二つの「大震災」を味わった。その際にも、その「大震災」というネーミングの先行としてこの大地震をあげることが多い。関東・東海地方に巨大地震が発生するのは、時間の問題とも言われている。そのとき、どういうネーミングになるのか、不謹慎ながら興味深いものが・・・。
 地域名を冠にして大地震の呼称を決定するのは、当然ともいえるが、「関東大震災」について、筆者の問題意識は、たんなる関東地域限定の大災害ではなかった、明治・大正・昭和という歴史の流れの中で、この大地震・大災害を、その後の日本の歩みを決定づける、思想史的事件として捉え直すべきだ、と。そして、この「大正大震災」が歴史の「断層」となっていてはならないことを明らかにしていく。
 震災前には、東京・横浜を徹底的に破壊したこの大地震への漠とした予感が巷では渦巻いていた。さらに、発生した後には、当時の荒廃しきった人心のおごりを正すべく天の罰を受けたとする「天譴論」(天罰論)が声高に叫ばれたことなどを明らかにする(去年、イシハラ知事が「天罰」だ、と。このようなご託宣を述べる人たちが当時も多くいた)。
 大正天皇の時代。明治あるいは昭和と比較して、歴史的には埋もれがちな時代。その末期に起こった、この大震災が「帝都」復興、さらには軍国主義の台頭へとつながり、後の昭和に引き継がれ、昭和20年の敗戦を迎える、結果的にはその契機になっていったことを当時の言論出版物をを資料にして、実証的に追求していく。
 震災被害救済、復興のために、軍隊が大いに貢献し(意図的な流言飛語によって朝鮮人虐殺などを引き起こさせた警察権力への不信・不満に比べて)多くの国民の感謝・感動となって、軍隊に対する見方を好意的に大変化させ、それが後に軍部主導の「国民皆兵」と総力戦体制へと移行していくことにつながっていった。そうした一般国民の態度の変化を明らかにする。
 特に興味深いのは、遷都論。過去にも「安政の大地震」などの大地震が相次ぎ今後も危ない、関東・東京に首都(帝都)を置くことは、国家存続の危機にもつながる、この際、遷都とすべきだ。その有力地として大阪・関西地域が名乗りを上げる。未だ輝きを失わなっていない商都・大阪の地をもって、日本復興を果たす。政治と経済、官と民との一大融合としての新首都(新帝都)建設を行うべきだ、と。
 大阪(港)を自由都市として整備し、太平洋貿易の中心地に据える構想などの主張も取り上げられている。結果的には、官重視・主導で、東京都(帝都)復興になっていくわけだが(震災直後の12日に下された「東京は帝国の首都」「旧形を留めずと雖依然として我国都たるの地位を失わず」という詔勅によって遷都論議は終熄する)。
 遷都論。空理空論という勿れ。確実視される「関東・東海大地震」の到来を思うと、遷都の議論は必要かも知れない。ここまでくると、橋下市長率いる「大阪維新の会」の存在、大阪都構想、地方分権、官から民へ、などの政治主張が現実味を帯びてくる。そんな感想がふと浮かんできた。
 しかし、筆者は、帝都復興に辣腕をふるった後藤新平を長谷川如是閑が「臆病なムッソリーニ」とたとえたことを引き合いに出しながら、当時の政治が「個人的英雄」の能力や思いつきによって左右される未熟で幼稚な政治状態を醸しだし、特に既存の政党攻撃者たる人物を今に至るまで(特に東日本大震災・福島原発事故以降の政治状況下で)礼賛していることにくぎを刺している。そこに、筆者が、「関東大震災」を思想史的事件として取り上げたゆえんもある。
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新金線(新小岩~金町)旧線路跡

2012-05-09 18:45:22 | 鉄道遺跡
 1947(昭和24)年9月のキャサリン(カスリーン)台風によって、東京の下町東部が大規模な浸水被害を受けたことにより、1949(昭和24)年に始まった、中川放水路(新中川)の開削工事。1963(昭和38)年3月、15年の歳月をかけてやっと完成した。
 この工事、葛飾区や江戸川区などでは、田畑の買収や多くの家屋等の立退きを余儀なくされるなどの大工事であった。
 新金貨物線も、現在のように以前の線路から大きく東側に移動することになり、葛飾区立奥戸中学校は、新中川と新金貨物線との間に移転することになる。
 その当時の線路(旧線路)は、中川放水路(新中川)を越えたあたりで、現在の線路と合流するかたちで新小岩駅方向に進んでいた。
 その線路跡。新中川の左岸手前では、奥戸中学校の北側で現在の線路と離れ、そのまま舗装された広い道に変わって分かりやすいが、右岸側は分かりにくい。おそらく国鉄用地の西側の細い道が旧線路跡のようだ。奥戸新橋(新中川ができる前には、当然存在していない)付近を西南に横断してそのまま総武線に合流していたと思われる。
 なお、複線化の計画があったようで(現在は頓挫している?)、そのためのコンクリートの橋脚部分だけが、新中川にそのまま。これから先も使用されることなく、撤去されずに残されていくのだろうか。金町から新小岩まで複線化計画のための用地が残されているのだが。
 トップの写真は、奥戸中学校側(新中川左岸側)。正面の突き当たりから直線の道路が旧線路跡。
右側の道路が旧線路跡?このあたりで現在の線路と合流している。
右手の直線道路が線路跡?
右が現在使われている線路。電化されている。複線化のための橋脚が残されている。 
対岸の金町(高砂)側を望む。
新小岩側。白く塗られてかなり頑丈な橋脚の土台。
土手から見たところ。雑草の陰に隠れているような。
新小岩側は国鉄用地。
この貨物線。新小岩~亀戸~越中島と支線(非電化)が伸びている。「越中島貨物駅常備」と記された貨物車。
現役で活躍中。
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読書「蕾」(百年文庫)ポプラ社

2012-05-08 19:52:13 | 読書無限
 小川国夫「心臓」、龍胆寺雄「蟹」、プルースト「乙女の告白」の三編。小川国夫は好きな作家の一人。初期の頃の「青銅時代」や「アポロンの島」などもすてきだが、特に藤枝ものが・・・。土地とそこに住まう人々への底知れない愛着と屈折感。その微妙な人物の描き方が秀逸です。たんなる私小説というジャンルや心境小説という枠組みではとらえきれないものが、差悪品の底流にはあります。独特の透明感が何ともいえません。「心臓」は、青春後期にさしかかった主人公と二人の若い女性の関わりを描く。遺作の「弱い神」は、大部の小説で、読み応えがありました。
 龍胆寺雄の作品は、はじめて読みました。独特の作風。男女の子ども二人だけの放課後の秘密基地。二人だけの秘密の共有、遠く海外に行くことで別れという現実感。蟹をはじめとする、小さな生き物たちの生息、少年の恋心・・・。幻想的な表現とシビアな現実描写が奇妙に混ざった作品。
 プルーストは何回も途中で挫折した「失われた時を求めて」を思い出しました。自殺したが、即死せず、しかしあと一週間となった女性の回顧談。といっても最愛の母親を裏切った娘の告白。その原罪意識は、母は私の衝動的な性行動を目撃し卒倒して頭を打って死んだのか、見ないまま、直前に脳卒中で死んだのか、という謎。差し迫った自らの死という現実。そこに、母の死・十年前の出来事がよみがえってくる。
 「失われた時間」を死の直前に取り戻すためのことば。歴史も世界も、自らの記憶の中に存在する。死ぬことによって記憶を失うことで、その人にとっての歴史も世界も無に帰す。ふと、そういう死という現実を見つめさせられました。
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山ウド2本。天ぷら、酢味噌、きんぴら。

2012-05-07 17:59:45 | つぶやき
 駄知に行ったときに山ウドを買いました。どう料理するか、聞きながら。さっそくチャレンジ、といっても、かみさんが。そばでパソコンからのレシピ情報を伝えながらの、ご本人。
 「ウドの大木」。ウドは2~3メートルの大きさに育つが、育った頃には食用にも木材にも適さないということから、転じて「図体はでかいが中身が伴わず、役に立たないもの」ということにたとえられます(ただし、ウドは木ではなく、草本の一種)。そういうことくらいしか知識がありませんでした。
 では、まだ「役に立つ」ころのウドを食してみようと。捨てるところはないそうで、芽の部分は、天ぷらに。茎は皮を向いて酢味噌に。皮はせんぎりにして、きんぴらに、ということですが、果たして。
天ぷら。タラの芽のような感じですが、苦みはなかった。
茎の部分。酢水に少し入れてから酢味噌で和える。みずみずしい食感でした。
皮の部分。にんじんを混ぜてごま油で炒めます。固くなく、ほんのり香ってきて美味。
 それぞれ、なかなかのものでした。
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ずばり「無謀登山」以外の何ものでもない。

2012-05-06 00:36:20 | つぶやき
天候急変の北アルプス、13人遭難し8人死亡(読売新聞) - goo ニュース
 ちょっと考えられない遭難。春山は天気が変わりやすく、突然、冷たい雨に、吹雪いたり、融雪なだれ・・・。装備は、充分すぎるほどに。たとえ山小屋泊まりでも。
 40歳半ばまで、北に南にと深田さん推奨の「百名山」制覇を目指して、せっせと山に登っていた頃(途中で断念しましたが)の自分の装備を思い出すと、無謀もいいところです。ちょっとあり得ない。
 夏山でも、北アルプスではその程度の装備でも遭難に遭う危険性が、大。秋の初め、福島の山を登っているとき、ちょっと横道にそれてしまって、山小屋に着くのに骨を折ったことがありました。冷たい雨が降り始め、身体は冷えてしまい、やっとの思いで山小屋に。
 今回の犠牲者が皆、高齢者。世間的な仕事などをリタイヤーした方々が、最近、登山を始めたのでしょうか。一方で、若い頃から登って下手な自信があると、かえって過信に陥り、遭難騒ぎを起こすことも。自己過信ほど、怖いものはありませんから。
 この場合、自己責任というのは適切ではないとは思いますが、多くの方々の手を煩わせ、その人たちにも危険な救難行動を強いたとすれば、死者にむち打つようですが、安易な登山への警告としていきたいものです。特に、体力の衰えた高齢者の登山は、要注意。でも、自分だけはそうならないと思って、これからも安易な登山が行われるでしょうね。
 
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織部ヒルズ、道の駅「志野・織部」、そして「だち窯やまつり」。

2012-05-05 20:12:24 | つかのまの旅人
 よく歩きました、朝から。最初に行ったところは、「織部ヒルズ」での陶器市。森を切り崩した小高い丘の上一帯が、陶器工場の集積地。続々と車の列、やっと臨時駐車場に入れました。そこから歩いて会場に。道の両側にはテントが数え切れないほど。様々な陶器が展示され、本当に安く売られています。
 3日間で35万人以上の人々が訪れるとか。岐阜ナンバーだけでなく、千葉ナンバーも。全国からやってくる市あげての催しのようです。買い物用のカートを持っている人も目立ちます。大量に買うつもりなのでしょう。
 ちょっと下った国道沿いには、道の駅「志野・織部」。ここにもたくさんの陶器が展示され、買い物客でいっぱいでした。しかし、我々の今回の目的は、駄知の窯を訪ねること。一通り歩いてから(けっこうな運動になりましたが)、車で駄知に移動しました。だんだん山の中に入っていく、この先どうなるのか、というほど一面、緑が美しい。
 小さなトンネルを抜けると、目の前がぱっと開け、駄知の町。周囲を山に囲まれ、小さな窪地の中に広がる町並みでした。ここに、多くの窯元があるとのこと。最初に「すりばち館」南楽窯・マルホン製陶所。大小問わず、用途別にたくさんのすり鉢が展示されています。我が家では今やすり鉢もなく、セラミック製のもの。すりこぎもすでにない。ここでは、線の細かさと独特のざらざら感がひとしお。懐かしい雰囲気に満たされました。いきなり満足感。そこから清山窯、藤山窯、丹山窯と巡りました。
 かつては薪を燃料にしていましたが、環境問題などで、今はすべてプロパンガスになってしまって、煙突からの煙も上らなくなったようです。少し物足りない感じですが、これも時代の流れですか。
 最後に知人宅の近くの「快山窯」に。ここの先代は人間国宝。青磁、白磁のすばらしい作品が展示され、今にその技術を受け継ぐ製品が売られています。その中で、銘々皿を買いました。驚くほどの安さ、その上に値引きをしてくれました(知人に感謝です)。すてきな青磁と白磁のお皿。さて、何を盛りつけたらよいか、家人の困ったような顔がふと浮かびました。
 今や西洋文化中心。住生活はもちろん、食生活もそれにならって食事を彩る器も変わりつつあります。こぎれいで、大量生産の安い製品も続々と売られ、あまり食器にこだわらないような風潮。その中にあって、地域をあげて、日本の伝統文化を守り、育てるために、何とか頑張っている気迫を感じました。思ったより、若い職人さんや子連れの顧客が多いのにも、一安心。
日本一のすり鉢。約70㌢。
かつての窯の内部。
もう使用されなくなったマルホン製陶所の煙突。こういう煙突があちこちにあり、煙が立ち上っていたそうです。今は、ガスのために煙は出ない、とのこと。
快山窯の煙突。
右手の奥が「どんぶり会館」。遠くからは、屋根がどんぶりのふたのように見えます。ここの食堂で食べる(ご飯物でもアイス一つでも)と、記念にどんぶりをくれます。けっこう粋な企画です。でも、帰りはお土産も含めて、荷物はかさばり、重かった!
見渡す限り、緑、緑。晴れていれば、南アルプスやおんたけさんがよく見えるそうです。
野外の作品も皆、陶磁器製。
銘々皿(白磁)
銘々皿(青磁)
どんぶり会館でもらったどんぶり二つ。けっこう深くて大きい。
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東濃鉄道駄知線

2012-05-04 22:55:25 | 鉄道遺跡
 長いつきあいの知人から誘われて、美濃焼の里、土岐市に行ってきました。年に一度の陶器市が5月の3,4,5日に行われる、ぜひ一度来て下さい、緑もたくさんあって、自然の豊かないいところですから、陶器もかなり安く売っていますし、窯元にも行ってみましょうよ、どんぶり会館なんかもあるし、・・・。
 名古屋市内で勤めていて、定年になってしばらくして地元の駄知に戻った。
 ここは、有名な窯元がたくさんあって、同じように陶器の販売や展示をそれぞれの窯元でやっていますんで。
 志野、織部、黄瀬戸。一大生産地だったんですね、ここは。恥ずかしいが、はじめて地名を聞きました。「どんぶり会館」なんて命名もユニークでよろしい、外見もどんぶりのふたをかたどった、と。こちらも何年も前から誘われていながらなかなか時間もとれず、ようやっと出かけることができました。
 JR中央線・土岐市駅。名古屋駅からは、快速で45分くらい。そこで待ち合わせました。久々の再会でした。他の方も見えるというので、待っているうち、昔はここから鉄道が駄知まで通っていた、廃線になってバス輸送に変わった、と。ここのあたりがホームで、と指さすのでした。えっ、聞き逃しては一大事。陶器市もけっこうですが、ぜひその廃線跡をみたい、ということになって今回の旅は、廃線・痕跡の旅ともなりました。
 東濃鉄道駄知線 路線総延長は、約10キロ、主な駅は、土岐市駅、下石駅、駄知駅(西駅)、東駄知駅(東駅)。沿線で盛んだった陶器生産の原料および製品を運搬するのが、主な目的でした。1922年(大正11年)に地元で設立された当時は、駄知鉄道。1944年(昭和19年)に東濃鉄道駄知線となりました。旅客営業も行っています。最初は、蒸気機関車、後に電化されて電車となりました。
 1972年(昭和47年)、集中豪雨による土岐川橋梁の流失で営業休止に追い込まれ、そのまま廃止となっってしまいました。しかし、社名は変更せずに、継続してバス運行事業を行っています。現在駄知駅は東濃鉄道土岐営業所、東駄知駅などはバスロータリー、新土岐津駅は東鉄の月極駐車場として利用されています。
  駄知線の跡地は一部整備されて、歩行者専用道路となっているとのことで、「だち窯やまつり」ににぎわう窯元見学のついでに、「駄知駅」、「東駄知駅」の現状、遊歩道などを探訪しました。
土岐市駅。駄知線のホームはなく、駐車場になっていました。
線路跡から土岐市駅方向を望む。
中央線から離れて左の方に向かっていきます。
線路跡は歩行者専用道路となっています。奥の歩道橋はかつて踏切だったところ。
橋のふもとにある古い建物。
駄知駅跡。広い敷地がかつての陶器製品積み出しなどの賑わいを彷彿させる。奥の建物は、かつての車庫で、今もバスの車庫として使われている。その車庫の中には、線路が残っていました。
駅の全景。
線路側にあったと思われる看板用の鉄骨の枠組み。
駄知駅はスイッチバック方式になっていた。この写真は、遊歩道(線路跡)と道路の交差点(踏切)に掲示されていたものです。
東駄知駅方向に進んだ線路跡。左手の窯工場からもう使われなくなった煙突が見えます。
東駄知駅への線路跡。工場の敷地内でした。駅は、バスロータリーになっていますが、時刻表では、1時間に1本くらいしかバスも発着していませんでした。
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読書「異」(百年文庫)ポプラ社

2012-05-03 18:15:42 | 読書無限
 今回は、怪異編。江戸川乱歩「人でなしの恋」、ビアス「人間と蛇」、ポー「ウィリアム・ウィルソン」の3作です。怪異という括りよりは、「異界」という方が適切なようですが。内容的には、今時の、ホラーに慣れている我々には、ちょっとたわいない、落ちが知れてしまうような話です。それでも、夜、寝床で一人読んでいると、ちょっと恐怖心が湧いてくる。
 「人でなしの恋」。人形に恋して死んでしまう夫。夫を取り戻そうと叩き壊した人形が、不気味な笑いを浮かべながら私を見つめる。
 「人間と蛇」誰よりも自信家の学者。ベッドの下に光る二つの目に居すくまれても、挑み、精神的に破れていく。落ちは、見事です。
 ポーの作品の訳は、江戸川乱歩のもの。ペンネームをポーに借りた乱歩です。同姓同名の同級生につきまとわれる恐怖。鏡に写る自分と生身の自分とどちらが本当なのか。鏡は異界へ誘う道具(装置)かもしれません。
 フジテレビ系列で放映されていた(今も時々、春秋に特別番組で制作されているようです)「世にも奇妙な物語」。案内役のタモリの語り口と短くまとまったストーリー。背筋が寒くなるような見事な作りでした。ふとそんな番組を思い出しました。「怪異」「ホラー」というようなくくりでは済まされないような趣のあるものでした。
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読書「宵」(百年文庫)ポプラ社

2012-05-02 22:50:55 | 読書無限
 このところ、飛行機だの新幹線に乗って出かける機会が続きます。車中でちょっと読書を。ちょうど手頃なのが、「百年文庫」。それでいてけっこう読み応えがあります。なかなか侮れない良品ばかりです。
 今回は、明治の作家3人。樋口一葉「十三夜」、国木田独歩「置土産」、森鴎外「うたかたの記」。いずれも擬古文調の優麗たる文体です。
鴎外以外は、会話文が口語体で表現され、言文一致体の先駆をなす。鴎外は、欧文体。それぞれ特徴が出ていて、実に見事な編集になっています。
 中でも、樋口一葉の「十三夜」は、絶品。何回読み通しても飽きません。明治になっても封建時代の因習の残る頃、子どもを残し、意を決して実家に戻る覚悟を決めた娘の心境。両親の驚き、嘆きと説得。すべてを胸におさめて、再び帰途に着く娘。偶然乗った車の車夫が幼なじみ、将来は嫁ぐ気持ちでいた男だった。落ちぶれ果てて車引きとなった男との道すがら(今や上流階級の車上の女と車引きの男、という運命のいたずら)、とぎれることもなく続く会話は、切々と胸に迫る表現。
 お互いの運命のなすところ、我が身の不幸を嘆きつつも、二度と会うこともなく、東と南に別れていく・・・。
 「憂きはお互いの世におもう事多し。」見事な終わり方です。他の作品も改めて読んでみようか、と思いました。
 鴎外の作品は、うって変わってテンポよくとんとんと話が進んで、小気味よいほど。降りしきる雨の中を疾走する主人公と再会を果たした憧れの女性。登場人物は、若き芸術家たちから発狂した王まで多彩に富み、また舞台回しもめまぐるしいほど。ヨーロッパ文学に接し、目覚めた鴎外の勢いと自負を、書き出しの部分から一気に感じさせる作品。「舞姫」とはまた違った味わいがありました。
 間に挟まれた国木田さんがちょっと気の毒な感じ。
 淡い恋心とその結末、その後の運命のなせるわざ・・・。春宵にふさわしい作品群でした。 
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久々の上田。薄日のもと。

2012-05-01 18:26:50 | つぶやき
 先月の後半は、お葬式が続きました。それぞれご縁のあった(たいへんお世話になった)方々。90歳以上の長寿。でも、身内の方にしてみればまだまだ元気でいてほしかった、と。通夜・告別式と親族の方々も大変だったことでしょう。
 大勢の方々の参列もあって、故人のお徳を十分偲ばせるにふさわしい葬儀でした。お顔も生前よりも色白く穏やかで眠っているようでした。早々においとましましたが、名残が尽きない思いでした。
 上田。久々の訪問。新幹線の停車駅になって大きな商業施設もでき、さぞ賑やかな、と思っていましたが、駅前も閑静で昔ながらの落ち着いた町並みでした。
 千曲川の土手にはシバザクラがずっと続き、満開の季節を迎えていました。新幹線が開通して在来線はしなの鉄道となって軽井沢から小諸、そして長野と運営されているようですが、果たして採算はどうでしょうか。
 今日から5月。今年も早、3分の一が過ぎました。千曲川は、雪解け水を集めているせいでしょうか、急な流れになっていました。
千曲川河畔。鉄橋は、上田電鉄別所線。
今まさに満開。
上田電鉄別所線。別所温泉行きのローカル線。20年以上も前に別所温泉にこの電車に乗って出かけたことがありました。国宝?の八角三重塔がとても印象に残っています。
車両。通り過ぎた瞬間で、ゆがんでしまいました。今度、機会があったら、再び別所温泉に行ってみたいものです。
駅前の大きな水車。
真田幸村の勇姿。

 この武将には、伝説が多く、そもそも真田「幸村」という呼称そのものが江戸時代になってから、とのこと。
伝説の最たるものが、元和元年(1615年)5月7日、享年49で死去したものとされるが、幸村には影武者が何人も居て、大坂城が落ちるのを眺めつつ、豊臣秀頼を守って城を脱出し、天寿を全うしたという。また「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたり加護島(鹿児島)へ」というわらべ歌が流行したという。
 真田幸村を今に至るまで有名人にしたのは、「真田三代記」と「真田十勇士」。
 『真田三代記』は江戸元禄期の歴史小説であり、真田昌幸・幸村・大助の三代、親・子・孫が徳川を相手に奮闘する物語である。後に生まれる真田十勇士中、猿飛佐助と望月六郎を除いた八勇士が登場。これが十勇士の原型とみられ、幸村を題材にした講談の流布とともに真田人気に繋がった。
『真田十勇士』は、忍者としてのの幸村が登場。大正時代に一世を風靡した立川文庫の中の一冊·「猿飛佐助」が大好評を博し、その総集編のタイトルとして使われたのが始まりとされる。主に上がる名前は、猿飛佐助、霧隠才蔵、根津甚八、由利鎌之助、筧十蔵、三好清海入道、三好伊三入道、望月六郎、海野六郎、穴山小介。ただし、幸村の息子である真田大助を入れるケースもある。
 いわゆる現在の幸村伝説と、彼をとりまく十勇士の顔ぶれが確立したのは、明治末から大正初期にかけて子どもの人気を集めた『立川文庫』からである。猿飛佐助や霧隠才蔵は架空とも言われるが、海野六郎・根津甚八・望月六郎の姓は真田の本家である海野氏など滋野三家であり、また三好兄弟はそれぞれ三好政康・三好政勝がモデルと言われている。(以上、ウィキペディアを参照。)
 子どもの頃、たしかに猿飛佐助とか霧隠才蔵などの名前は知っていました。「根津甚八」は、長じてから、おいしく粋な酒飲みどころとして何回か出かけましたが。
 駅前の広場で、反創価学会のパンフレットを熱心に配っている集団がいました。今も昔も血気盛んな地域なのでしょうか。

 
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