おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「絆」(百年文庫)ポプラ社

2012-05-22 21:17:08 | 読書無限
 「絆」。3・11以来、いろんな場面で用いられようになった。未曾有の大惨事を経験して、犠牲者への深い鎮魂の心と日本の復興・再生のために、互いに一致協力して「がんばろう」。その合い言葉。
 「絆」とは、断つことのできない人と人との結びつきをいう。「ほだし」とも。 もともと、馬などをつなぎ止めるための綱のことで、転じて、自由を束縛するものという意味を持っていた。「断とうにも断ち切れない」という意味合いが強く、「しがらみ」という言葉が適切な感じ。現在、頻繁に用いられる「絆」には、人と人との結びつき、その肯定的側面ばかりが強調されているが、人間同士の結びつきには、人(互いに)に苦をもたらす一面があることも・・・。
 今回の海音寺潮五郎、山本周五郎。二人とも時代小説家(大衆小説家)として今でも人気を博している。もう一人のコナン・ドイルもシャーロック・ホームズシリーズで世界中に愛読者がいる。そんな3人の短編の中から「絆」という括りで採りあげられた。
 それぞれの物語から、人間どうしの友情、信愛、思いやりが長い年月の経過の中で醸成されてきたもので、生半可なものではないことを伝えてくれている。時には信頼していた相手への不信感、また相手の心根を斟酌する度量のなさ、自暴自棄、余計な束縛感、しがらみ、それでも疑わない心・・・、そうした数々の互いの葛藤を経て、「絆」が成り立ってくる不思議さ。「絆」というものが、その時限りの心の作用ではないことを示している。
 昨今の世相は移ろいやすく、人々の心も気まぐれ。「熱しやすく冷めやすい」のが常とはいえ、TV・マスコミを中心に、政治家や評論家たちの、次々と大向こうを狙う言動に振り回され、ことの本質が見えにくくなって(見えにくくさせられて)、いつしか「絆」という言葉が指し示した理想・目的は曖昧となりつつあるように感じる。もともとそのことば自体、軽い内容・本質ではないことを思い知らされる。
 「善助と万助」(海音寺潮五郎)。「山椿」(山本周五郎)。「五十年後」(コナン・ドイル)。
 
コメント (1)
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