先月の後半は、お葬式が続きました。それぞれご縁のあった(たいへんお世話になった)方々。90歳以上の長寿。でも、身内の方にしてみればまだまだ元気でいてほしかった、と。通夜・告別式と親族の方々も大変だったことでしょう。
大勢の方々の参列もあって、故人のお徳を十分偲ばせるにふさわしい葬儀でした。お顔も生前よりも色白く穏やかで眠っているようでした。早々においとましましたが、名残が尽きない思いでした。
上田。久々の訪問。新幹線の停車駅になって大きな商業施設もでき、さぞ賑やかな、と思っていましたが、駅前も閑静で昔ながらの落ち着いた町並みでした。
千曲川の土手にはシバザクラがずっと続き、満開の季節を迎えていました。新幹線が開通して在来線はしなの鉄道となって軽井沢から小諸、そして長野と運営されているようですが、果たして採算はどうでしょうか。
今日から5月。今年も早、3分の一が過ぎました。千曲川は、雪解け水を集めているせいでしょうか、急な流れになっていました。
千曲川河畔。鉄橋は、上田電鉄別所線。
今まさに満開。
上田電鉄別所線。別所温泉行きのローカル線。20年以上も前に別所温泉にこの電車に乗って出かけたことがありました。国宝?の八角三重塔がとても印象に残っています。
車両。通り過ぎた瞬間で、ゆがんでしまいました。今度、機会があったら、再び別所温泉に行ってみたいものです。
駅前の大きな水車。
真田幸村の勇姿。
この武将には、伝説が多く、そもそも真田「幸村」という呼称そのものが江戸時代になってから、とのこと。
伝説の最たるものが、元和元年(1615年)5月7日、享年49で死去したものとされるが、幸村には影武者が何人も居て、大坂城が落ちるのを眺めつつ、豊臣秀頼を守って城を脱出し、天寿を全うしたという。また「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたり加護島(鹿児島)へ」というわらべ歌が流行したという。
真田幸村を今に至るまで有名人にしたのは、「真田三代記」と「真田十勇士」。
『真田三代記』は江戸元禄期の歴史小説であり、真田昌幸・幸村・大助の三代、親・子・孫が徳川を相手に奮闘する物語である。後に生まれる真田十勇士中、猿飛佐助と望月六郎を除いた八勇士が登場。これが十勇士の原型とみられ、幸村を題材にした講談の流布とともに真田人気に繋がった。
『真田十勇士』は、忍者としてのの幸村が登場。大正時代に一世を風靡した立川文庫の中の一冊·「猿飛佐助」が大好評を博し、その総集編のタイトルとして使われたのが始まりとされる。主に上がる名前は、猿飛佐助、霧隠才蔵、根津甚八、由利鎌之助、筧十蔵、三好清海入道、三好伊三入道、望月六郎、海野六郎、穴山小介。ただし、幸村の息子である真田大助を入れるケースもある。
いわゆる現在の幸村伝説と、彼をとりまく十勇士の顔ぶれが確立したのは、明治末から大正初期にかけて子どもの人気を集めた『立川文庫』からである。猿飛佐助や霧隠才蔵は架空とも言われるが、海野六郎・根津甚八・望月六郎の姓は真田の本家である海野氏など滋野三家であり、また三好兄弟はそれぞれ三好政康・三好政勝がモデルと言われている。(以上、ウィキペディアを参照。)
子どもの頃、たしかに猿飛佐助とか霧隠才蔵などの名前は知っていました。「根津甚八」は、長じてから、おいしく粋な酒飲みどころとして何回か出かけましたが。
駅前の広場で、反創価学会のパンフレットを熱心に配っている集団がいました。今も昔も血気盛んな地域なのでしょうか。
大勢の方々の参列もあって、故人のお徳を十分偲ばせるにふさわしい葬儀でした。お顔も生前よりも色白く穏やかで眠っているようでした。早々においとましましたが、名残が尽きない思いでした。
上田。久々の訪問。新幹線の停車駅になって大きな商業施設もでき、さぞ賑やかな、と思っていましたが、駅前も閑静で昔ながらの落ち着いた町並みでした。
千曲川の土手にはシバザクラがずっと続き、満開の季節を迎えていました。新幹線が開通して在来線はしなの鉄道となって軽井沢から小諸、そして長野と運営されているようですが、果たして採算はどうでしょうか。
今日から5月。今年も早、3分の一が過ぎました。千曲川は、雪解け水を集めているせいでしょうか、急な流れになっていました。
千曲川河畔。鉄橋は、上田電鉄別所線。
今まさに満開。
上田電鉄別所線。別所温泉行きのローカル線。20年以上も前に別所温泉にこの電車に乗って出かけたことがありました。国宝?の八角三重塔がとても印象に残っています。
車両。通り過ぎた瞬間で、ゆがんでしまいました。今度、機会があったら、再び別所温泉に行ってみたいものです。
駅前の大きな水車。
真田幸村の勇姿。
この武将には、伝説が多く、そもそも真田「幸村」という呼称そのものが江戸時代になってから、とのこと。
伝説の最たるものが、元和元年(1615年)5月7日、享年49で死去したものとされるが、幸村には影武者が何人も居て、大坂城が落ちるのを眺めつつ、豊臣秀頼を守って城を脱出し、天寿を全うしたという。また「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたり加護島(鹿児島)へ」というわらべ歌が流行したという。
真田幸村を今に至るまで有名人にしたのは、「真田三代記」と「真田十勇士」。
『真田三代記』は江戸元禄期の歴史小説であり、真田昌幸・幸村・大助の三代、親・子・孫が徳川を相手に奮闘する物語である。後に生まれる真田十勇士中、猿飛佐助と望月六郎を除いた八勇士が登場。これが十勇士の原型とみられ、幸村を題材にした講談の流布とともに真田人気に繋がった。
『真田十勇士』は、忍者としてのの幸村が登場。大正時代に一世を風靡した立川文庫の中の一冊·「猿飛佐助」が大好評を博し、その総集編のタイトルとして使われたのが始まりとされる。主に上がる名前は、猿飛佐助、霧隠才蔵、根津甚八、由利鎌之助、筧十蔵、三好清海入道、三好伊三入道、望月六郎、海野六郎、穴山小介。ただし、幸村の息子である真田大助を入れるケースもある。
いわゆる現在の幸村伝説と、彼をとりまく十勇士の顔ぶれが確立したのは、明治末から大正初期にかけて子どもの人気を集めた『立川文庫』からである。猿飛佐助や霧隠才蔵は架空とも言われるが、海野六郎・根津甚八・望月六郎の姓は真田の本家である海野氏など滋野三家であり、また三好兄弟はそれぞれ三好政康・三好政勝がモデルと言われている。(以上、ウィキペディアを参照。)
子どもの頃、たしかに猿飛佐助とか霧隠才蔵などの名前は知っていました。「根津甚八」は、長じてから、おいしく粋な酒飲みどころとして何回か出かけましたが。
駅前の広場で、反創価学会のパンフレットを熱心に配っている集団がいました。今も昔も血気盛んな地域なのでしょうか。