おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「カフカ式練習帳」(保坂和志)文芸春秋

2012-05-24 23:18:22 | 読書無限
 カフカ(1883~1942年)は、長編を大判の四つ折ノートで執筆する一方、短編にはより小さい八つ折ノートを宛て、短編の他にも多くの書きさし、断片、アフォリズムなどを記していたそうです。
 そうしたカフカが残した文学(手法)に長年、なれ親しんできた作者。そこで、自らと自分にまつわる家族、友人、猫たちに囲まれ、支えられてきた(支えてきた)そうした人生の感慨(断片)を、カフカにならって手元に置いたノートに、あるいは携帯メールに書き綴ってきたものをまとめて(とはいえない風にして)小説的、随想的で独自な世界を作り出しています。作者の小説作法の根幹(こだわり)が垣間見られる作品になっています。
 初出は、「文学界」の2010年1月号~2011年12月号。ということは、昨年の3・11をはさんでの連載だった。大地震と大津波、それに福島原発事故。
 それらに対して、津波から逃げ延びた親子の体験談が一つ引用されていますが、「大地震の日にもうジジは生きていなかった。」から始まる文章があるだけです。(ジジは、スマトラ沖大地震では、異常なほど激しく反応した。)
 しかし、妻と何度も交わしたこの言葉は、誰のために何のために言われたのか、と。何度も反芻していく中で、ジジの生前、悪化する容態を前に、「生きていない方が楽だね」とは思ったことはない自分に気づく。そこから、生きること(他者が生きていること)と死ぬこと(他者の死に直対すること)を思い、、生と死をへだつこととは何か、というように(とりわけ自分自身と肉親たちの)世界と人生に思いをはせていきます。
 猫にまつわる話もたくさん。その多くは愛する猫との別れ。作者自身に関わるかどうかを考えつつ、手抜きできない、多くの猫たちへの思い入れ、眼差しは、時には人間への愛の感覚をさえ越えるほどです。
 それに比べて、犬には・・・。「目の前にいたチワワが、デジタルの画像が乱れるように乱れた。気持ち悪かった。」ちょっと言い過ぎ? でも、猫好き・犬嫌いの私は、同感しましたが。
「私の外延は私の知らないところでどこまで欲望のいいなりなのか? 私は私の外延のしていることを予感することしかできない。」この世の生きとし生けるものとの「閾」を常に感じつつ生活する作者ならではの感慨。
 カバー写真が、一瞬の間に通り過ぎる、人生という(過去・現在・未来という)、持続すると思っている「時間」を刹那に切り取った、意味深い写真になっています。ことわざに、「白駒(はっく)の隙(げき・ひま)を過ぐるがごとし」(白馬がせまいすきまの向こう側を通り過ぎる)というのがありますが、そんなイメージを感じました。
 ついでに、カフカには、「書くことは、祈りの形式である。」という名言が残っています。
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