マルティン・ガルシア・ガルシア ピアノリサイタル
「ショパン:
4つのマズルカ Op. 33
舟歌 Op. 60
「24の前奏曲」より Op. 28-13、Op. 28-3、Op. 28-2、Op. 28-14
ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 Op. 35 「葬送」
ラフマニノフ:
楽興の時第3番 ロ短調 Op. 16-3
楽興の時第2番 変ホ短調 Op. 16-2
ピアノ・ソナタ第1番 ニ短調 Op. 28」
鼻歌(鼻歌協奏曲)と全身を左右に揺らす奏法が印象的なガルシア・ガルシア氏の今年2回目の来日ツアー。
曲目はショパンとラフマニノフで、これなら丸山眞男先生から「盛り合わせ音楽会」という批判を受ける心配もない。
前回のツアーの印象から”パワー系”というイメージを抱いていたのだが、前半のショパンは感情豊かで、比較的おとなしめである。
ところが、意外なところで事件が起こった。
予想できないことだったが、Op. 28-14で、ピアノが生きている猛獣のように暴れ出したため、私は恐怖を覚えたのである。
こういう”震撼させられる”現象は生のコンサートだからこそ起こるのであって、CDでは決して体験することが出来ない。
過去の例で言うと、東京・春・音楽祭2019「15周年記念ガラ・コンサート」の「歌劇 《オテロ》 第2幕より オテロとイアーゴの二重唱 <神にかけて誓う>」でのペーター・ザイフェルトの歌唱がまさしくそうだった。
歌が終わった瞬間、会場の聴衆の殆どが立ち上がり、拍手とブラヴォーの嵐がしばらくやまなかったのである(東京・春・音楽祭 15周年記念ガラ・コンサート(4月12日、東京文化会館 大ホール))。
(ちなみに、後でこの映像をストリーミングで視てみたけれど、生の迫力は殆ど伝わらなかった。)
ところで、ガルシア・ガルシア氏は、自分のことを、楽譜を忠実に解釈する演奏家だと考えているらしい。
マルティン・ガルシア・ガルシア、大胆な演奏の裏に精密な分析「音符なぞるだけではダメ」
「そのショパン演奏は、典型的なショパンのスタイルとはかなり異なる。強弱の振幅が大きく、大胆なテンポやフレージング(歌い回し)を多用する。「『典型的なスタイル』とは何を指すのでしょう? 皆、他人の演奏ばかり気にして、実体のない空虚な様式を作り出している。僕はあくまで楽譜に書いてあることを信じます」と断言する。」
だけど、鼻歌のことは、楽譜には書いてないと思うぞ。
「ショパン:
4つのマズルカ Op. 33
舟歌 Op. 60
「24の前奏曲」より Op. 28-13、Op. 28-3、Op. 28-2、Op. 28-14
ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 Op. 35 「葬送」
ラフマニノフ:
楽興の時第3番 ロ短調 Op. 16-3
楽興の時第2番 変ホ短調 Op. 16-2
ピアノ・ソナタ第1番 ニ短調 Op. 28」
鼻歌(鼻歌協奏曲)と全身を左右に揺らす奏法が印象的なガルシア・ガルシア氏の今年2回目の来日ツアー。
曲目はショパンとラフマニノフで、これなら丸山眞男先生から「盛り合わせ音楽会」という批判を受ける心配もない。
前回のツアーの印象から”パワー系”というイメージを抱いていたのだが、前半のショパンは感情豊かで、比較的おとなしめである。
ところが、意外なところで事件が起こった。
予想できないことだったが、Op. 28-14で、ピアノが生きている猛獣のように暴れ出したため、私は恐怖を覚えたのである。
こういう”震撼させられる”現象は生のコンサートだからこそ起こるのであって、CDでは決して体験することが出来ない。
過去の例で言うと、東京・春・音楽祭2019「15周年記念ガラ・コンサート」の「歌劇 《オテロ》 第2幕より オテロとイアーゴの二重唱 <神にかけて誓う>」でのペーター・ザイフェルトの歌唱がまさしくそうだった。
歌が終わった瞬間、会場の聴衆の殆どが立ち上がり、拍手とブラヴォーの嵐がしばらくやまなかったのである(東京・春・音楽祭 15周年記念ガラ・コンサート(4月12日、東京文化会館 大ホール))。
(ちなみに、後でこの映像をストリーミングで視てみたけれど、生の迫力は殆ど伝わらなかった。)
ところで、ガルシア・ガルシア氏は、自分のことを、楽譜を忠実に解釈する演奏家だと考えているらしい。
マルティン・ガルシア・ガルシア、大胆な演奏の裏に精密な分析「音符なぞるだけではダメ」
「そのショパン演奏は、典型的なショパンのスタイルとはかなり異なる。強弱の振幅が大きく、大胆なテンポやフレージング(歌い回し)を多用する。「『典型的なスタイル』とは何を指すのでしょう? 皆、他人の演奏ばかり気にして、実体のない空虚な様式を作り出している。僕はあくまで楽譜に書いてあることを信じます」と断言する。」
だけど、鼻歌のことは、楽譜には書いてないと思うぞ。