ジャン=ポール・ベルモンドの代表作『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』などを一冊に詰め込んだ復刻号が発売!
「ヒューマントラストシネマ有楽町&シネ・リーブル池袋ほか全国順次公開決定!ジャン=ポール・ベルモンド主演、ジャン=リュック・ゴダール監督の傑作『勝手にしやがれ』、『気狂いピエロ』の二作品が劇場で上映されます。」
ゴダール監督逝去直後に注文したDVDを今頃になって観ているが、監督が自殺(尊厳死)した理由の一つが分かったように感じた。
それは、「ベルモンドが亡くなったから」。
引用した記事にもあるとおり、ベルモンドの代表作としては、いまだに「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」というゴダール作品が真っ先に挙げられるくらい、ゴダールとベルモンドはセットとして考えられている。
ところが、「気狂いピエロ」の撮影の際、二人は不仲となったそうである。
Wikipedia(ジャン=ポール・ベルモンド)から引用すると、
「同年再びゴダールの『気狂いピエロ』に主演する。しかし、ベルモンドはシナリオを使わないゴダールのやり方を批判し「二度とゴダールとは仕事をしない」と宣言した。一方のゴダールも、1970年に商業主義の映画を嫌うと宣言し、もっとも使いたくない俳優の筆頭にベルモンドを挙げている。」
とあり、その後ベルモンドがゴダール作品に出演することはなかった。
そういう意味では、ちゃんとセリフがあって重要な役目を果たしている「勝手にしやがれ」こそが、この二人にとって唯一の幸福な「共同作品」だったように思える。
事実、この映画は観ていて実に気持ちが良い。
改めて観て分かったのだが、早くもシーン3の”Chambre de bonnne” で”dégueulasse”(最低!)というセリフが出て来る(形容詞と名詞)。
言うまでもなく、この言葉こそがこの映画の核心である。
”dégueulasse”がある意味主人公としてストーリーを駆動させていたのであり、ベルモンドはその化身なのである。
同様に、「気狂いピエロ」もやはり「言葉が主人公」の映画だということが出来るが、それがいわゆる”セリフ”ではなかったというところが、ベルモンドにとっては気に食わなかったのかもしれない。
「ヒューマントラストシネマ有楽町&シネ・リーブル池袋ほか全国順次公開決定!ジャン=ポール・ベルモンド主演、ジャン=リュック・ゴダール監督の傑作『勝手にしやがれ』、『気狂いピエロ』の二作品が劇場で上映されます。」
ゴダール監督逝去直後に注文したDVDを今頃になって観ているが、監督が自殺(尊厳死)した理由の一つが分かったように感じた。
それは、「ベルモンドが亡くなったから」。
引用した記事にもあるとおり、ベルモンドの代表作としては、いまだに「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」というゴダール作品が真っ先に挙げられるくらい、ゴダールとベルモンドはセットとして考えられている。
ところが、「気狂いピエロ」の撮影の際、二人は不仲となったそうである。
Wikipedia(ジャン=ポール・ベルモンド)から引用すると、
「同年再びゴダールの『気狂いピエロ』に主演する。しかし、ベルモンドはシナリオを使わないゴダールのやり方を批判し「二度とゴダールとは仕事をしない」と宣言した。一方のゴダールも、1970年に商業主義の映画を嫌うと宣言し、もっとも使いたくない俳優の筆頭にベルモンドを挙げている。」
とあり、その後ベルモンドがゴダール作品に出演することはなかった。
そういう意味では、ちゃんとセリフがあって重要な役目を果たしている「勝手にしやがれ」こそが、この二人にとって唯一の幸福な「共同作品」だったように思える。
事実、この映画は観ていて実に気持ちが良い。
改めて観て分かったのだが、早くもシーン3の”Chambre de bonnne” で”dégueulasse”(最低!)というセリフが出て来る(形容詞と名詞)。
言うまでもなく、この言葉こそがこの映画の核心である。
”dégueulasse”がある意味主人公としてストーリーを駆動させていたのであり、ベルモンドはその化身なのである。
同様に、「気狂いピエロ」もやはり「言葉が主人公」の映画だということが出来るが、それがいわゆる”セリフ”ではなかったというところが、ベルモンドにとっては気に食わなかったのかもしれない。