ミシェルがなぜパトリシアに執着するのかという点については、二人の関係性から理解すべきだろう。
「死について考える青年」は、「死を考えない若い女性」、つまり生の頂点にある人間を、自分とは対極にあるという理由で必要としているのである。
ミシェルの行動は殆ど動物的で、道を歩きながら、パトリシアに
”On couche ensemble, ce soir?” (今夜、一緒に寝ないか?)
と口説きかける。
これをのらりくらりとかわすパトリシアの言葉が面白い。
”Je ne sais pas” (分からないわ)
これぞ、「何も知らない」人間が放つ殺し文句である。
パトリシアは、自分がミシェルを愛しているのかどうかすら実は分かっていないようだ。
続くミシェルの追及に対し、パトリシアは、
”On se verra demain...”(明日会えるでしょ)
と気を持たせつつ先延ばしする。
これは第二の殺し文句である。
ミシェルはなおも食い下がり、
”...je voudrais rester à côté de toi.” (君のそばにいたいんだ。)
と今度は子供のように泣き落としにかかるが、パトリシアは冷たく突き放し、ジャーナリストに会いに出かける。
それを見ながらミシェルは、
”Fous le camp, dégueulasse!”(行っちまえ、最低の女!)
と吐き捨てるのである(p32)。
「死について考える青年」は、「死を考えない若い女性」、つまり生の頂点にある人間を、自分とは対極にあるという理由で必要としているのである。
ミシェルの行動は殆ど動物的で、道を歩きながら、パトリシアに
”On couche ensemble, ce soir?” (今夜、一緒に寝ないか?)
と口説きかける。
これをのらりくらりとかわすパトリシアの言葉が面白い。
”Je ne sais pas” (分からないわ)
これぞ、「何も知らない」人間が放つ殺し文句である。
パトリシアは、自分がミシェルを愛しているのかどうかすら実は分かっていないようだ。
続くミシェルの追及に対し、パトリシアは、
”On se verra demain...”(明日会えるでしょ)
と気を持たせつつ先延ばしする。
これは第二の殺し文句である。
ミシェルはなおも食い下がり、
”...je voudrais rester à côté de toi.” (君のそばにいたいんだ。)
と今度は子供のように泣き落としにかかるが、パトリシアは冷たく突き放し、ジャーナリストに会いに出かける。
それを見ながらミシェルは、
”Fous le camp, dégueulasse!”(行っちまえ、最低の女!)
と吐き捨てるのである(p32)。
ちなみに、Fous le camp は、「勝手にしやがれ」と訳すことも出来る。
このあたりがおそらく最初のピークで、ソナタ形式で言えば「提示部」に当たる。
ミシェル=死について考える青年は、パトリシア=死を考えない女性に惹かれるが、二人の間にコミュニケーションは成り立たない。
ミシェルは、息が切れるまで(à bout de souffle)死に向かって突き進んでいるのだが、パトリシアは、「分からないわ」+「明日会えるでしょ」という生きるために必要とされる規範=「認識と行動の先送り」を厳格に守っているからである。
こういうパトリシアを、ミシェルは”dégueulasse”と表現する。
ミシェルからすれば、パトリシアの規範は、単なる「死の先送り」のように見えるのかもしれない(「生きるとは、死を先送りすることである」と言ってしまえば元も子もないけれど。)。
あとは、この主題の展開部と再現部ということになるだろう。
さて、3回目の”dégueulasse”は、オレリー空港での小説家:パルヴレスコ(フィルム・ノワールの巨匠、ジャン=ピエール・メルヴィル監督)が、「ショパンはお好きですか?」という質問に答えた一言:
”Dégueulasse!”(最低だ!)
である(p70)。
パトリシアはその場に居合わせているので、ラストシーンでは、彼女は既に”dégueulasse”の意味を知っていたという解釈も成り立つわけである。
このあたりがおそらく最初のピークで、ソナタ形式で言えば「提示部」に当たる。
ミシェル=死について考える青年は、パトリシア=死を考えない女性に惹かれるが、二人の間にコミュニケーションは成り立たない。
ミシェルは、息が切れるまで(à bout de souffle)死に向かって突き進んでいるのだが、パトリシアは、「分からないわ」+「明日会えるでしょ」という生きるために必要とされる規範=「認識と行動の先送り」を厳格に守っているからである。
こういうパトリシアを、ミシェルは”dégueulasse”と表現する。
ミシェルからすれば、パトリシアの規範は、単なる「死の先送り」のように見えるのかもしれない(「生きるとは、死を先送りすることである」と言ってしまえば元も子もないけれど。)。
あとは、この主題の展開部と再現部ということになるだろう。
さて、3回目の”dégueulasse”は、オレリー空港での小説家:パルヴレスコ(フィルム・ノワールの巨匠、ジャン=ピエール・メルヴィル監督)が、「ショパンはお好きですか?」という質問に答えた一言:
”Dégueulasse!”(最低だ!)
である(p70)。
パトリシアはその場に居合わせているので、ラストシーンでは、彼女は既に”dégueulasse”の意味を知っていたという解釈も成り立つわけである。