Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

安楽椅子派の聖地巡礼(3)

2023年10月28日 06時30分00秒 | Weblog
① 黒田邸
 「死んだ父が建てた横浜中区山手町の、谷戸坂上のこの家」(「決定版 三島由紀夫全集 第9巻」(以下「全集9」と略す。)p225)は、この小説の”聖地”の筆頭に挙げるべきスポットである。
 なぜなら、(私が勝手にそう名付けた)「第2の animus」(不健全な自我の拡張(9))、あるいは、”首領”の言葉で言えば「世界の内的関聯の光輝ある証拠」(p367)が現前化したのは、まさにこの場所だからである。

 「かくて汽笛のひびきが、突然、すべてを完璧な姿に変へる決め手の一筆を揮ったのだ!
 それまでそこには、月、海の熱風、汗、香水、熟しきった男と女のあらはな肉体、航海の痕跡、世界の港々の記憶の痕跡、その世界へ向けられた小さな息苦しい覗き穴、少年の硬い心、
・・・・・・これらのものが確かに揃ってゐた。しかしこの散らばつた歌留多の札は、なほ、何の意味もあらはしてゐなかった。汽笛のおかげで、突然それらの札は宇宙的な聯関を獲得し、彼と母、母と男、男と海、海と彼をつなぐ、のつぴきならない存在の環を垣間見せたのだ。
 「『これを壊しちやいけないぞ。これが壊されるやうなら、世界はもうおしまひだ。さうならないために、僕はどんなひどいことでもするだらう』
 と登は夢うつつのあひだに思つた。」(p234)

 ところで、この小説に関しては3冊の「創作ノート」があったことが判明しているが(但し、うち1冊の前半部は欠落)、そのうちの1冊には、明らかに、「憂國」執筆の際、「切腹」の描写のため”転用”されたと思われる記述がある(ちなみに、欠落した部分は、「憂國」あるいはそれ以外の小説の執筆のために用いられた後、作者が廃棄した可能性が考えられる。)。
 また、「憂國」にも、「第2の animus」が登場する。
 映画だと分かりやすいが、掛け軸に揮毫された、馬鹿デカい「至誠」(三島が心酔していた吉田松陰の座右の銘でもある)の二文字がそれである。
 武山信二・麗子夫妻は、「至誠」を貫くため自害する。
 対して、「午後の曳航」の主人公:黒田登と少年たちは、「のつぴきならない存在の環」を守るため塚崎竜二を殺害する。
 こういう風に考えてくると、「憂國」は「午後の曳航」のヴァリエーションと言ってよいように思われるし、私には、「至誠」の2文字が、登の大きな二つの目のように見えて仕方がない。
 なお、川島勝氏は、登と少年たちは三島の明らかな分身であるのみならず、竜二も実は三島の分身と思われる旨を指摘している(前掲p197)。
 私も同感で、登と少年たちは13歳の三島、竜二は当時の三島(昭和37年5月2日に長男:威一郎氏が誕生し、”首領”によれば「地上でいちばんわるいもの、つまり父親」(「全集9」p367)になったばかり)の分身だと思う。
 このように解してみると、「午後の曳航」は、「13歳の三島が、当時の(父親になった)三島自身を殺害する」という、「憂國」と同じく「自己人身供犠」(不健全な自我の拡張(9))をテーマとした小説であることがよく分かる。
 「血が必要なんだ!人間の血が!さうしなくちや、この空つぽの世界は蒼ざめて枯れ果ててしまふんだ。僕たちはあの男の生きのいい血を絞り取つて、死にかけてゐる宇宙、死にかけてゐる空、死にかけてゐる森、死にかけてゐる大地に輸血してやらなくちやいけないんだ。」「全集9」p371
という”首領”(彼も三島の分身である)の言葉は、オペラでは、壮麗なアリアへと変身しているのではないだろうか?

コメント
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