「安楽椅子」に座ったまま法務局からの書類を開封すると、「閉鎖登記簿の謄本」と「移記された閉鎖登記用紙の謄本」が入っていた。
「閉鎖登記簿の謄本」はよく見かけるが、「移記された閉鎖登記用紙」というのは、(たぶん)初めて聞く言葉である。
「粗悪用紙移記」について。」によれば、これは、「古い用紙から新しい用紙に内容を移し替えたもの」ということらしい。
この「表題部」を見ると、
「昭和拾七年拾弐月八日受付横濱市中區山手町百拾参番
一、宅地・・・・・ヲ登記ス」
とあり、「・・・ヲ移記ス」という記載はないので、これが最も古い登記情報と思われる。
それでは、その前の状況はどうだったのだろうか?
これを知るためには、横浜・山手町の歴史を繙く必要がある。
江戸時代末期、山手町一体には田んぼと畑が広がっていたようである。
というのも、「山手町77番地」(113番地の近く)を含む古い地図には、「畑」及び「田」という記載があるからである(山手町77番 ― 消えた地番のクロニクル )。
そうすると、この一帯は、おそらく地元の農民が占有していたものと思われる。
当時は外国人の殺傷事件が絶えなかったが、生麦事件(1862年9月14日)以降、横浜には外国艦隊が集結し、居留地防衛を名目として、1875年まで、山手町には英仏の軍隊が駐留していた(「横浜もののはじめ物語 」p11)。
つまり、「黒田邸」が建てられた土地は、もともと田畑であったのだが、開港後、外国人居留区(一時は軍隊の駐屯地)となったのである。
ところで、最初の登記がなされた昭和17年(1942年)ころと言えば、既に第二次世界大戦が始まっている。
だが、英米の外交官や商人たちは、これよりずっと前(軍隊が撤収した1875年より後)に、山手町一体に住み着いて家を建てていた。
にもかかわらず、あえて昭和17年という時期に登記がなされたのには、もちろん理由がある。
そのことは、登記簿の「甲」区を見ると分かる。