Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

安楽椅子派の聖地巡礼(5)

2023年10月30日 06時30分00秒 | Weblog
 「安楽椅子」に座ったまま法務局からの書類を開封すると、「閉鎖登記簿の謄本」と「移記された閉鎖登記用紙の謄本」が入っていた。
 「閉鎖登記簿の謄本」はよく見かけるが、「移記された閉鎖登記用紙」というのは、(たぶん)初めて聞く言葉である。
 「粗悪用紙移記」について。」によれば、これは、「古い用紙から新しい用紙に内容を移し替えたもの」ということらしい。
 この「表題部」を見ると、
 「昭和拾七年拾弐月八日受付横濱市中區山手町百拾参番
一、宅地・・・・・ヲ登記ス
とあり、「・・・ヲ移記ス」という記載はないので、これが最も古い登記情報と思われる。
 それでは、その前の状況はどうだったのだろうか?
 これを知るためには、横浜・山手町の歴史を繙く必要がある。
 江戸時代末期、山手町一体には田んぼと畑が広がっていたようである。
 というのも、「山手町77番地」(113番地の近く)を含む古い地図には、「畑」及び「田」という記載があるからである(山手町77番 ― 消えた地番のクロニクル )。
 そうすると、この一帯は、おそらく地元の農民が占有していたものと思われる。
 ところが、安政五カ国条約(1858年)に基づいて、英仏などから商人たちが続々と上陸し、横浜地区一帯に「永代借地権」を主張して(地代も払わずに)居座り、居留地を形成した。
 当時は外国人の殺傷事件が絶えなかったが、生麦事件(1862年9月14日)以降、横浜には外国艦隊が集結し、居留地防衛を名目として、1875年まで、山手町には英仏の軍隊が駐留していた(「横浜もののはじめ物語 」p11)。
 つまり、「黒田邸」が建てられた土地は、もともと田畑であったのだが、開港後、外国人居留区(一時は軍隊の駐屯地)となったのである。
 ところで、最初の登記がなされた昭和17年(1942年)ころと言えば、既に第二次世界大戦が始まっている。
 だが、英米の外交官や商人たちは、これよりずっと前(軍隊が撤収した1875年より後)に、山手町一体に住み着いて家を建てていた。
 にもかかわらず、あえて昭和17年という時期に登記がなされたのには、もちろん理由がある。
 そのことは、登記簿の「甲」区を見ると分かる。
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