パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

監督ジーコは合格点か?

2006年05月26日 21時15分50秒 | Weblog
自分たちで考えてプレイする
一度しか通用しない教えられた通りの戦術ではなく、
それぞれが考えてのプレイをする!

自分の意見を、言い争いに聞こえようが
主張し、解決点を見つける
それができるようになってきたから、
日本がステップアップするための一段階としての
ジーコの監督は成功だと言う人がいる。

そうかな?
勿論、自由に考え幅広い選択肢の中からプレイしたり
チームメイト同士が話し合いをするのは
全然反対ではない。
しかし、それが代表という立場で
中心になるほど要求されることがらなのだろうか?

そんなことは、代表に選ばれる時点で、前提としてできている
と考えるべきではないのか?
つまり、ジーコの要求するものは、
もっと若い時期(幼い時期)に身につけておくものではないのか?

もし仮に自由に考える癖をつけたいのなら、代表ではなく
小・中・高での時代につけるべきではないのか!
そして、指導方針にもそのように記すべきではないのか!

小・中・高でもシステムや戦術が優れていると
いわゆる自由にやっているところより勝率が良い
だから、おまけに、日本人はこういう考え方が好きだから
早い時期にそちら(システム、戦術)の方を教えてしまう

本当に良いのは、若い時代に自由な発想、意見の交換が
できるように育てておき
代表になれば、これぞ日本スタイルというような
パターンを作る方が良いのではないのか?
勿論、日本パターンというのはイメージの貧困な
戦術というのではなく、各自の発想を前提にした
決まり事という意味でのことだが。

何故だか、ジーコの言っている自由というのは
どこか違っている気がしてならない

決まり事の中での自由。
俳句が五七五の文字、季語の制約の中で
豊穣な世界を作ることができたように
サッカーでも、代表レベルでは
このような制約の中の自由を求めるべきではないのか?

ジーコは果たして監督としての仕事を行ったか?

トルシエは監督という業績の評価からすれば
それほど悪く言われる人だったのだろうか?
(人格、性格はわからないけれど)
コメント
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