よく知っているつもりの人の書いた文章を読んだりすると
普段の印象と異なる事がある
その文章が上手ければ上手いほど
あれっ、この人こんな風だったかな?
と思ったりする
いつもの直感からなる印象と異なるのは
その人の本質を見抜く力がないせいか
それとも、書かれた文章が人格とは全く別物である所為か?
およそ人の評価に関する限りは
書かれた文章の人格よりは肌で感じる人格の方を信じてしまう
傾向が強いのではないだろうか
さて作品というジャンルのもの、つまり小説・詩・哲学・絵画・音楽
それらはそれを生み出す人物とは別箇に(存在するものと)
判断する方が正しいか否か
サリエリにとってモーツァルトはおよそ許せない
チャランポランな人間に見えたとしても
その作品は信じられないほどの完璧さをもって
人の心を魅了する
文学者でも探していけば作品は凄いけど
人間的にはとても耐えられない
といった人は出てくるに違いない
いったい何をもって評価するのか?
実際のところ作品は最終的には
人間性を現す面があるのもまた事実で
そしてその隠れた人間性は、それを味わう側の洞察力・直感の力を
借りないと把握できないのではないか
話は飛躍して音楽の演奏について
作品の現実としての楽譜を正確にただ演奏するだけでは
作品の本質に迫れないのではないか?
アプローチ方法はいろいろあると言っても
まずは直感の助けが必要
作曲家が求めたモノを改めて求めるような態度で
作品に向かわないと作品は説得力を持たないのではないか
などと多少ロマンティックな希望を持ちながら
考えてしまう
そしてフルトヴェングラーが凄いなと思うのは
最初の掴みが、全てを見抜いている様に思えてしまう事
紛う事無い直感と洞察力
こんな人はもういないホント聴きたかったな実演で!
第9の4楽章の、もの凄いフェルマータのあと
再弱音で始まる効果は記憶の中でも圧倒されてしまう
また話があっちこっちに飛んでしまったが
要は人格と作品の問題
そして作品の解釈の前提としての直感・洞察力の事を
うだうだ述べてみただけ