パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

体罰について

2013年03月05日 21時46分05秒 | あれこれ考えること

柔道もバスケットも駅伝も、そして野球も
「昔は自分たちもそうだった」
と親たちは考えていたりするが
この親たちの感覚を無くさない限り体罰についての改革は難しそう

ところで、自分が少し前までサッカーコーチをしていた時
体罰はあったか?
言葉の暴力はあったか?
と問われたならば、それは無かったと言っていいと思う

体罰に近いこととしては小学生低学年に
「おしりペンペンしちゃうぞ!」
と言ったことがある、だが子供達は
「おしりペンペンして!」
とねだる有様
大体はこんな雰囲気で練習が進む

練習がうまくいかず、技術の進歩が見られない時も
別に腹は立たない
「いいよ、上手くいかなくても、
上手くいかないから練習してのだから!
我慢して頑張ろう。キッカケつかめば上手くいくよ、きっと!」
「そう、その調子!上手い、出来たじゃん」
つまり褒める方で進めていった

しかし、全然怒らないわけではない
躾とか道徳に関する分野になると
普段怒らない自分が怒るから
子供達もシュンとしてビビっていた

が、それも少しの間だけ

体罰と一括りされるが
練習時と躾・道徳とは分けて考えたほうがいい

技術のスキルアップについては体罰の意味がわからないし
その効果なんて想像できない
あるのはコーチの自己満足だけだ

しかし、躾・道徳については
まず言葉で、それでもわからないようだったら
ある程度の体罰は効果があるのではないかと思う

勿論、ここには体罰をするものと受けるものの
信頼関係が存在することが前提となる
自分のことを真剣に考えてくれている!
と実感すれば、子供達は案外受けいるるのではないかと思う

だがいくら体罰と言ってもヒステリックに何度もなんてことは
とても考えられない
ショック療法のせいぜい1回だけ

それにしても、学校の先生の立場のコーチと
単にスキルアップのためのコーチと
指導を受ける側の状況が随分違う

学校の先生からは教育一環等と言われたりしたら
生徒は返す言葉がない

しかし、何度もしつこく繰り返される暴力は
先生のエゴにすぎない

教えるものと教えられるもの
上下関係ではなく、実はパートナーであるべきなのでは
うまくなることをお互いに願い、ともに努力する
そこに暴力の入る余地なんてあるのだろうか?



コメント
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