最近の芳しくないニュースの原因は「見て見ぬふり」をしている人の存在
千葉県野田市の小学生虐待死については学校・児童相談所・教育委員会
政府の統計不正については官僚さんの、そしてレオパレスでは実際に携わっていた人たち
彼らはみんな知っていたのに見て見ぬふりをしていた
それが極論とするなら大した問題ではないと錯覚していた
こうした無責任な行動をした人達を外から批判するのはたやすい
怒りを口にしていれば、ニュースの傍観者はストレス解消できたような気持ちになる
しかし、オルテガが大衆と名付けた一般の人たち(ニュースの傍観者)は同様に「見て見ぬふり」をしていないか
この見て見ぬふりをする存在は、無関心層と一致するかもしれない
無関心で本当に知らなかったから見て見ぬふりをしていたのではないと反論があるかもしれない
仮にそれが本当だとしたら、この何も知らない人(大衆)になにか重大な決定を委ねる権利(例えば選挙権)を
与えるのは正しいことか(将来にとって有益なことか)は少し疑問が生じる
知らないことに対して判断を要求される、しかし、その内容が複雑な場合
人はわかりやすい例えとか単純化された説明をそれが全てと思い込むそして、自らの権利を実行する
大衆は、あるいは民衆は正しい(後の世界でふさわしいとされた)判断を行えるか
大枠の人の直感は割合正しくて、無意識的に適切な選択をするだろうとする楽観的な考え方もあるが
感情・空気に左右されやすい人々はとんでもない間違いを起こす可能性があるとの考え方もある
つまりは当たり前のように存在している今の社会システムは、案外微妙なバランスで成り立っている
こんなふうに一種民主主義の否定するような思いに至っているのは、最近の国のせいだ
一昨年の森友・加計学園、南スーダン日報問題、公文書改ざん問題、辺野古埋め立ての土砂の問題
サンゴ移植の問題、そして今回の統計不正、いずれも重大な事件が存在するにもかかわらず
内閣支持率はさほど下がっていないという実態に少し違和感と疑問を感じるからだ
そもそも内閣支持率が新聞ごとに要求される数字を反映していて、それ自体に問題があるとか
母集団の選択に恣意的なものはないかとか考えられているが、もっと大きな問題は
何があっても心を動かさない無関心な見て見ぬふりをする人たちの存在
ハンナ・アーレントは全体主義の起源のなかで、全体主義運動は無関心層の存在によって達成される
と緻密な検証から報告している
どうしても存在するこの無関心層が、大事な問題を決める権限を持って良いものか、、
いつまで経ってもクリアできない問題として気にかかっている
これはオルテガとか西部さんの影響かな、、きっとそうだろうけど、、