現代語訳の源氏物語を楽しんでいるが、当たり前だが現代と随分違っていることが多い
まずは結婚の形式としては、通婚(かよいこん)
これはある程度知られた話だが、それに至る過程がなかなか面白い
女性は昼中に自分の姿を見られることを良しとしない(御簾で隠している)
ちらっと見た男は、歌を詠んで女性に渡す(周辺の女性を通じて)
歌を渡された女性は返事をする(本人の場合と周辺の女性が代わりに詠うこともあり)
そうしてやり取りをした後、合意すればことに至る
その行為は随分暗いところでなされるようで、明るくなってよく顔を見たら
案外、、、だったなどという記述がある(末摘花・夕顔)
しかし、順調に行くときばかりではなくて、これが小説の中だけのことなのか
実際によくあったのか知らないが半ば強姦のようなことが行われる
(これが後半の悲劇的な物語のきっかけにもなるが)
ことに至った後、薄暗いうちに男は女の家から出ることになるが、それからも
歌を送る続けるのが常識とされているようだ
つまりは歌の素養・センスが無いとなかなか好ましい結果には至ることができない
(この選別の方法は、当てが外れる事のない様にするためには現実的な方法かもしれない)
光源氏といえば浮気とかプレイボーイの代表とされるが
この時期はイスラム諸国に見られるような一夫多妻制で、ここが光源氏の偉いところだが
関係のあった女性にはみんなそれなりの対応をしている
よく見たらちょっとブスだった末散花、歳を重ねて魅力が無くなってきたが日常生活の
知恵とか技術がしっかりしていて気が楽な花散里
浮気相手(明石の上)の子供を我が子のように可愛がる紫の上、、、
それそれが嫉妬心を抱えながらも仕方ないと諦めて暮らす
中には嫉妬から逃れられずに怨霊となった六条の御息所もいたが、これは小説的な登場人物
最初はこのようなことが気になっていたが、そのうち別のことが気になりだした
一つは度々登場する「宿命」という言葉
誰かと誰かが結ばれるもの、好ましくない運命に至るもの「縁」と言われるものから結果で
「宿命」は仕方ない、、という考え方
これは仏教的な考え方かもしれないが、どうやらこの時代は想像以上に仏教が大きな力を持っていたようだ
出家をした人(藤壺、朱雀院)したがる人(光源氏・紫の上)など、終活は仏教というところなのだろうか
またこの時代は医学・科学が進んでいないので、体調を崩した人には加持祈祷で平癒を期待するようだ
そんなもの当てにならない、、というのが現代人の発想(ドーキンスは祈りなど全く意味がないとしている)だが、
あの時代は真剣に効果があると思われていたのかもしれない
(加持祈祷が頻繁に行われていた様子は枕草子にも書かれていた、その中で読経をする人がイケメンだと嬉しいとか
途中で眠くなって船を漕いでる人がいるとか、そんなエピソードの章がある)
話は飛ぶが雨乞いの祈祷で効果があったのは空海と安倍晴明の二人だったとの説もある
こうした生活感の違いが面白いが、物語の中盤を過ぎて性格描写が多くなって感情移入しやすくなった
源氏物語は、女性の書いた物語だな、、と感じる
それは諸田玲子の「姦婦にあらず」を読んだときも不意に襲ってきた感覚だが、髙樹のぶ子の作品でも
そんなふうに感じることがある
(反対に男っぽいなと言うのは小説ではないが音楽でアントン・ブルックナーの作品が挙げられる
これは男しかわからない世界に違いないと何時も思ってしまう)
他にもいろいろ気づく点があって思いの外楽しめている状況
全部読み終えたら解説本でおさらいをして、それからこの時代の歴史の本を読むとすんなり頭に入っていくかもしれない
それにしても、この時代の人はすぐ泣く
男は泣いちゃいけない、、となったのは、いつ頃からなんだろうか、、と気になりだした