パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

終わった感じがするのはフルトヴェングラーの演奏

2019年02月24日 09時22分07秒 | 音楽

秋になると聞きたくなる曲(クラシック部門)という調査があると
なぜか上位を占めるのがブラームスの交響曲第4番
晩年の作品で、寂寥感を感じさせる音楽というだけでは説明がつかない
万人をそう思わせる何かがある

録音媒体を通じてしか体験できない田舎の人間は、
この曲を高校時代にカラヤンの指揮(ベルリン・フィル)のもので聴いた
全く同時期にマーラーの9番の交響曲もバーンスタインの指揮(ニューヨークフィル)
のレコードを手に入れた

当時はマーラーの方を繰り返し聴いた
特にベルクが高評価した一楽章を、気分の変化の多い感情の爆発のような音楽が
高校生のエネルギーに満ちた生理的なものとマッチしてとても好ましく思われた
一方ブラームスの方は最初の楽章の少しセンチメンタルな主題のせいもあって
どこかなよなよとして、言いたいことがストレートに出ていないもどかしさを感じたりして
男らしくない、、とまで感じてそれほど頻繁に聴いたわけではなかった

ところが最近はレコードやCDを取り出して聞く回数は全く違ってきている
そしてその理由も高校時代とは反対の理由で、昔は肯定的に思われた感情表現の爆発が
今では少し恥ずかしいとか、ストレートに表すものではないとか、もう少し抑える方が良いとか
そんなふうに感じるようになっていて、ブラームスの古典的な様式の中に密かに込められた思いのほうが
上品で、いろいろ経験してきた身にはしっくり来るような気がしている
そしてこれは、源氏物語で交わされる歌の評価とも似たところがある
つまりあまりにもストレートな表現は少し下品で、、好ましくないように思えてしまうのだ

音楽は感情表現のひとつだが、感情の面が表に出すぎると、情に訴えてわかりやすいかもしれないが
最近はどこか引いてしまうところがある
チャイコフスキーの音楽とかシューベルトの晩年のピアノソナタは、聴いてるその時は良いかもしれないが
あとで少し恥ずかしい気がしてならない

人生を重ねるうちにいろいろ感じ方や好みも変わってくると実感するのだが
このブラームスの4番の交響曲は、変奏曲形式の第4楽章がとても変な終わり方をする
それは「終わった感じがしない」と感じることで、何度か聞くうちには多少なれたが
それでも何時もどこか中途半端な終わり方だな、、と思っていた
これは自分だけの感じ方ではなくてコンサートを主催する立場になっていた知り合いも
この曲の終わり方は変だとこぼしていた

しかしこれも何故だかわからないが、フルトヴェングラーの指揮する音楽だけは終わったと感じる
それは必然の流れ、終わり方、、と感じる
音楽を聞くということは耳を通して受動的に感じているのだが、フルトヴェングラーの場合は
聴いている音をきっかけにして頭の中でその音楽に参加しているような気分になることが多い
フルトヴェングラーは音楽は聴衆との共同作業との言葉もあるが、
録音媒体を通してでも音楽への参加を感じさせるような、、音楽を聞いていると言うより
何かを体験したという感じが聞き終わったあと残る

ということで、やっぱり不思議な指揮者のフルトヴェングラー
それにしても、何故彼の演奏だけ終わった気がするのか、、、不思議だ

コメント
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