残念ながら人は利他的よりは利己的な面のウエイトが高い
だが利己的は多少恥ずかしいと自覚していて、それを補うために
「みんな」がそのように考えているとの安心感を持ちたいと思う
このときの「みんな」というのが具体的な個人名を挙げよと問われると
案外すぐさま浮かんでこず、「みんな」は言葉の勢いだけで使われてしまう
傾向は少なくないのではないか
そしてこの「みんな」という言葉はとても都合よくて、この言葉を使う人は無条件に
「みんな」の考えることは正しいことだ、、と思い込んでいるように思われる
ところが本当に「みんな」が考えたり思うことが正しいか、、
といえば、それはわからないのではないか
政治や経済の世界は何が正しくて何が正しくないかは正直なところ数学や物理のようには出てこない
無理やり答えを出すとすれば「結果」だけで、それによりあのときの選択や解釈は正しかった等の
評価を下すことになる
先のことはわからない
なるべくなら間違いのない未来を予想したい
いや未来は予想すべきものではなく実現するものとの考え方がある
しかしそのためには、判断材料となる各種の情報が正確に目前にあることと
最終的な判断を下す人が洞察力・全人格的な判断力・各種知識・人間にたいする大づかみの認識
熱意等に満ちている必要がある(きっと)
ここでついつい無い物ねだりをしてしまうのが、優秀なリーダーの存在
地方でも国でも優秀なリーダーさえいればなんとかなる、、と考えたい傾向がある
ところが現在目にしている現実は、そのような考えたかたは幻想に近いということだ
本当に残念なことに、この「みんな」が選んだリーダーがその全能感を勘違いして
「みんな」がそうではないと思われるようなことをしつつある
そしてこれが不思議な事に全世界的に同時に起こっている
最近つくづく感じることは、良きものとされる民主主義はとてもデリケートなもので
それは後生大事に祭り上げているものではなくて、常に誰かが刺激を与えて
緊張感をもたらすものでないと機能しないだろうということ
でも、真に難しいのは、人は我がことのように物事に取り組めないこと
利己的なことは関心があっても利他的なことには、、、、、
他人のことは言えないが、、