パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

話をまとめる人、進める人

2019年02月22日 08時23分00秒 | あれこれ考えること

いつもの独断と偏見に満ちた話

諮問会議とパブリックコメントは行政のアリバイ作りとの考えがある
実際のところ、ある計画のパブリックコメントを求められたとしても
現状分析、ついであるべき姿が記述されていたとすると、あまりにも当たり前の事柄で
その手の議論になれていない人には口を挟みにくい
仮にできたとしても「てにをは」の使用の間違いとか変更を指摘するくらい

抽象的な話題について識者に意見を求めることはよくあることだ
識者は自分の専門とする分野については自らの知識・経験を踏まえて説得力のある話を発言できる
しかし、その会議が専門家同士の話ではなく多方面の識者が集まる場合は、前提となる知識が異なるので
いざ同じテーマについて話し合うというのは案外難しい

抽象的な問題を数の限られた会議で答えを出すには、会議の無駄のない進め方、論点の整理が必要となる
この会議の進め方に関して最初に論点整理とかレジュメが与えれることになるが
果たしてそれがふさわしいものか、、もしかしたら恣意的な要素が込められていないか、、と考えてしまうことがある

実際のところ抽象的な問いに対する会議は、誰もがどのように進めるのが適切かわかりにくい
ところが、どうやらいろんな会議には「お手本」となる進め方があるようだ
進め方のみならず会議の報告書についても、一定の形式・筋立てがあってそれに従えばそれなりの形で終えられる
このまとめ役が誰になるかが、実は大きな要素となる

諮問された事柄に対する報告書
それを誰が書くか、、
人は同じ空間にいて同じ話を聞いていても感じ方は違うことがある
ある現場で熱のこもった議論を誰かがまとめる
そして第三者に対して報告するのだが、一般的にはこの報告の仕方・内容で良いかどうかを
会議の参加者に事前に閲覧してもらい了承を受けることになる
まとめられた報告書はどこか不足部分を感じながらも、実生活に関わりのないことなら
そんなものだろうと緩い判断を下すことになる

ところが話があちこちに飛んだ場合には論点整理をして一応整った形にするにはかなりの事務的な能力が必要とされる
要約筆記という言葉があるらしいが、世の中にはいろんな能力の人がいるもので、その人は多方面に散らばった話し合いも
ある概念のもとのものに整理・区分けしてスッキリしたものにできる
ところがこのような人の存在は稀有なもので普通はどこにでもいるわけではない
とすると、まとめ方はある定まった形式によるものか、ただただ議事録の羅列とか
あるいは、その能力があるだろうと想像される肩書をもった人に依頼することになる
ところが、この肩書をもった存在の人は、本当に第三者的な視点で物事を見られるか、、
というのが、細かい話だが気になる

これは現在進行中の国会の統計不正についても見直しの云々等は、専門家の技術的な問題だけでなく
ある方向性をもった会議の進め方というだけである種の意思を感じることになる

つまりは一般人が簡単に想像できないような抽象的な問題についての会議(の報告)は
その会議が行われる最初の段階と最後の段階で、わりあい都合よくまとめられてしまうかもしれない
だからこそアリバイ作りとの声が出てしまうのだが、、

抽象的な話は進めにくいが、抽象的なこのような物言いは更にわかりにくい、、
ということになるのだろうが、あまりにも具体的に記述すると少し問題があるので敢えて
それとなく、、、

諮問される第三者機関と言われる組織は、その構成メンバー構成に偏りがないかとか
メンバーが依頼主と金銭的に無関係か、、といったところが肝心となりそう
だがこうした諮問会議は普通の人には関心の外にある
それ故、どんな内容でもあまり気にならないことになる
そしてキチンとステップを踏んで適切に行なった、、という表現になりそうなのだが
これでいいのかな、、、というのが今回のポイント
(しかし、面倒な話は関心がない気持ちもわかるし、、、)



 

コメント
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