テレビ番組は何故どこの局でも同じようなニュースを同じ時刻に流しているのだろう
と思うことがある
最近では野田市の小学生の虐待死の事件で、児童相談所等の不手際が報道されているが
連日の報道でおおよそのことは理解できているつもりだ
だからそのニュースが始まると(辛いニュースというせいもあるが)チャンネルを変えると
そこでも同じニュースをしている
再びチャンネルを変えると、またもや同じニュースが報道されている
少し前は煽り運転の動画が同じ時刻に多くのテレビ局で使用されていた
そしてその報道のトーンは、どの局も似たような姿勢大きな違いはない
またその前には韓国のレーダー照射騒動で、これまた同じ時刻に同じような内容の報道だった
そしてそれぞれのニュースが別の時刻の番組で扱われると、専門家と言われる人々が
局のはしごで、当たり前だが同じことを繰り返し説明している
テレビ局は視聴率競争をしている現実がある
にもかかわらず、同じような報道(番組)をつくって平気でいられるかが正直わからない
テレビ局は独自な視点を持つことは無いのだろうか
例えば児童相談所・教育委員会・学校の対応の不味さを問うだけでなく
自分の子供に対する暴力が多いのは何故か?(尊属殺人は最近多いのか?)
それは最近のことなのか?それとも昔からあったことなのか?
無条件に子供をかわいいものとする親の気持ちが、最近はそうではなくなってきているのか?
それは社会的な影響があるのか?(もしかしたら生物学的な視点からもヒントがあるかもしれない)
との視点で、報道する気は無いのだろうか
煽り運転にしても、車に乗ると人格が変わってしまう人がいるが何故か
すぐにキレてしまうのは何故か?
そういう人が最近多くなっていないか?
カッカしないためには人は何をすべきか(心の持ち方と社会環境)
残念ながらそうした視点で話は聞いたことがない
テレビ局は視聴率競争をしているというものの、自ら独自の視点をもち独自の報道を
することを怖れていないか、、
これは多くの仲間の中のひとりとして安心したいという、日本人によく見られる傾向の一つなのか
人と変わった視点・考え・行動をする
するとどこかに摩擦が起きる
そんなことは当たり前でその上でどこか妥協点とか同意点、あるいは異なる考えに対する理解が
深まると思われるが、この過程を最近の人は面倒と感じやすくなっていないか
多くの中のひとりとしての存在で安心する
ある時期所有しているもの(購入したもの)で自分を表現しているとの考えがブームになった
都会風の洗練されたグッズを所有し、評判の店舗で購入することが感度の高い人物とされた
実際はそんなことはありえず、単にプロモーションに載せられたに過ぎない(ことが多い)
皆が読んでいる本を読み、みんなが見ている映画を見る
そしてそれをSNSで拡散する
皆が注目している食品をその場所で食べ、写真に撮る
こうして自己承認欲求を満たすと同時に、自分はみんなと同じだと確認し安心する
多くの中にいる自分に対する安心と、そこから離れてしまうことへの不安
この心的なものが、どこの局を見ても同じ報道がなされる理由の一つとして存在しないか
(報道の現場では他社を出し抜くより、記者クラブで仲間はずれにされない方が
大事なことと思われているそうだ)
こうした傾向は日本人によく見られる傾向なのか
それとも最近の事柄なのか
昔、女子高生に向けて思いついた皮肉を込めたフレーズにこんなのがある
「みんなと同じ、、ダサーい。みんなと違う、、こわ~い」
テレビ局も世間の人も同じなのかもしれない
内閣支持率でも大勢に所属していることで安心したい誘惑からは逃れられないのかも
人と違うということは、度胸も覚悟もいるからな、、、
(そんなのはそのうち慣れるのに)
連休中の暇に任せて、、あれこれどうでもいいこと