ものすごい読書量の人がいる
公開されたその人の読書メーターを見ると一月に20冊以上で
多くは小説類だが、読みやすい類といえども自分には信じられない量だ
いったいどんな味わい方とか頭の構造になっているのか
と興味があるが自分にはできない
速読は一種の才能といえるものだろう
それに挑戦したわけはないが、かたっ苦しい本ではなくて
比較的読みやすい本を最近読んでみた
原田マハの「風神 雷神」と池波正太郎の「雲霧仁左衛門」だ
2つとも上下に別れていて分量も少なくない
これは比較的速読できて一冊読むのに2日くらいだった思う
ただし、味わって読んでいるかといえば、それは怪しい
登場人物が誰が誰だったかを忘れたまま読み続けて、
とにかく筋だけを追っかけていた
これは楽は楽だが、途中でつまらなくなってきてしまった
なにか物足りないというか引っかかりがないのだ
かたっ苦しい本を読んでいる時の、集中とか想像力を要求される
あの抵抗感が無いのだ
もちろん頭の中に情景は浮かび、登場人物を勝手に想像し、彼らは活躍する
しかし、それは思い浮かべているものの自分が参加している感覚ではない
それは傍観者に近い
感情移入と言われる作業が行われるのは、作家と相性がいい場合だろうが
困難を伴い、自らが参加し、参加するような本を読み続けていると
何か(刺激)がないとつまらなく感じてしまうようだ
こんなふうに思ったのは、最近録画されたものを倍速で見る人が多い
との報道を見たからで、消費者ニーズに応えて再生モードも
1.3倍速 1.5倍速 2速で見られるようになっているそうだ
それを多用する人の使い方とか感じ方を聞いたが、その人達の職業は
メディア関係だったので手短に情報を仕入れておくというのは理解できないことではない
ただこれを一般の人が行っている現状は、情報とか物事の理解が表面的なところに
終始してしまわないかとの不安を覚えてしまう
視覚情報に依存するメッセージとか、短い断定的なフレーズの一見わかりやすい情報は
果たして本当に必要なことを伝えきれているのだろうか
最近のツイッターとかインスタグラムによる投稿は
その数は膨大であったとしても少しばかり不安を覚えてしまう
もともとこれらの情報は一部を除いてお気楽な情報が多い
たくさんの人は語っ苦しい話を望んでいない
日常の些細な微笑ましい情報とか、なんとなく自己顕示ができるような機会を
を望んでいるかのようだ
そして自己顕示欲を満たすネタは、現実には内的な欲求ではなく
広く世間に溢れている情報(人気店、人気の場所、人気の映画)等に
後追いして、みんなが同じような感じ方とか伝え方をしているのではないか
情報の掴み方が、世間に溢れているものにのみ左右されるのではなくて
自らの内的な衝動によって必然的に求めていく、、といったようなことは
実はとても大切なのではないか、、と思ったりする
とにかく楽なのは楽でいいけど、物足りなくなるってことはあるのだ
本も面倒くさいのを馬力のあるうちに読まないと、いつか読めなくなってしまう
本棚に並ぶ読み終えた難しい本を見て、ニンマリするのは
苦労して登った山の写真集をみてニンマリするのと似ている
結局は自己満足に過ぎないとしても
困難に立ち向かわなくなりつつある世間の傾向(最近感じられる)は
少しばかり不安!