パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

命令と個人の判断

2021年04月04日 09時05分14秒 | あれこれ考えること

お気楽に暮らしていても世間の状況が気持ちに大きく影響する
ミャンマーの軍隊が市民・子どもに銃を発砲し数人が亡くっていることや
アメリカでのアジア人に向けてのヘイトクライムの報道を見るたびに
少しばかり落ち込んでしまう(子どもの死には涙が出てきてしまう)

何故、そんなことが平気でできてしまうのだろう(特に軍人)
背景とか動機とかいろんな説明が為されるが
どうしても理解し難いのはその時の個人の判断だ

人は命令されて、人に苦痛を与えることは平気でできるか?
といった恐ろしい実験がかつてあった
アイヒマン実験と名付けられたもので、被験者が出された質問に間違って答えた場合
担当者は(実はこの人が実験の対象だったのだが)ビリビリと電気を流すボタンを押す
そしてその電圧は間違えるたびに強さを増していく
というもので、命令されたことがどのくらい個人の判断に基づかないで自動的に行われるか
を実験したものだった
この実験は「社会的に役立つものである」という前提をボタンを押す人は聞かされている
つまり自分は正しいことをしていると思い込んでいると、他人が苦痛を感じることでも
平気でできてしまう結果を出している
そしてそのボタンを押すのを命令する人が上司だったりその道の専門家であったりすると
判断に躊躇はなくなるようだ
また、電気を流された人物の苦痛の姿とか声を見たり聞いたりできないようにされた状態では
より逡巡すること無くボタンを押したとの結果が出ている
この実験は電気が流されるのは嘘で、流された人はそのフリとか声を演技したものだが
流石に人道的に問題がある実験ということで以後この手の実験は禁止されてしまったが
それでもハンナ・アーレントのいう「思考停止」(個々の判断はせず命令に従っただけ)
が引き起す結果は見られるものだった

正しいものとされ、命令する人がそれなりの人で、苦痛の様子を知ることもなければ
人は平気で非人間的なこともしでかしてしまう、、
これはとても悲しい現実のようだ
でも気になるのはどうしてもその際の個人の判断のこと

例えば官僚とか職員が上司の命令に従うのが法的なことであったとしても
そこには自分が生きてきて身につけた価値判断等の基準との違いが生まれてしまうことがある
生きることは「社会との折り合い」をつけるだけでなく「自分との折り合い」もつけなければならない
そうでないと結果的に苦しくて仕方なくなる(はず)

この個人の判断という要素を、日本人はあまり考えてこなかったのではないか
時々そう思えて仕方ない
日本社会は自分勝手は横行するが、それは単にわがままの類に過ぎず
真の意味での個の主張等は煙たがられて、嫌われる傾向にあるのではないか


話は飛んで、サッカーでも野球でもバレーでも「〇〇ジャパン」と監督名を
〇〇にいれて語られることが多い
しかしサッカーなどは現実的には、その瞬間瞬間の個々の判断によることは多く
監督さえ個々の判断を信用するしか無いのだ
またチーム一丸でと美辞麗句を並べても、現実的に強いチームは個がしっかりした
(年収の多い)選手が多いチームだ
つまりは個の技術や判断が素晴らしいチームが良い結果を導くことになる

そもそもの考え方がどうも欧米人と日本人とは違っているのではないか?
と感じることがある
個人主義と簡単に言ってしまうが欧米の個の確立をベースにした
「判断するのは自分、判断したことは自分で責任を負う」というものが
日本では自己の責任回避をしたがる傾向があるように思えて仕方ない

急に読み直してみようかと、ある本が頭に浮かんだ
「自由からの逃走」だ
読んで答えが出るとは思わないが、
「命令に従ってるほうが楽!」
を変えさせるのは想像以上に難しいかもしれない



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする