パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

背景知識

2021年04月07日 08時11分42秒 | あれこれ考えること

気になって読み返しつつあるのがリップマンの「世論」とフロムの「自由からの逃走」
再読あるいは再再読になるが、付箋がつけてあるのでそこだけを拾い読みしている
何故そこに付箋を付けたのか、納得できるものやできないことがあるのはご愛嬌

このような内容だったのか!と、しばしば感じるところが少しばかり悲しいが
年齢によって捉え方が違ってくるといったのとは少し違って
以前は理解力がなかったと思い知らされる思いだ

自分が常々感じていることや考えていることは、完全に自分オリジナルではなくて
こうした本によって熟成されているのだと実感するが、これらの本の著者も同様に
前に表に出された考えとか概念に影響されていると感じる

物理学では前任者の業績を踏まえて積み上げるように、こうした人文関係の分野も
前任者の思考を踏まえて進めているのだと、今回の再読・再再読で強く認識した

特に「自由からの逃走」は、自分がこの1.2年読んでいる本からインスパイアされたと感じる部分がある
マックス・ウェーバーやハンナ・アーレント、マルクス等の行き着いた思考とか認識をベースに
自分のものとして書いているが、「ここはウェーバーの考えたところだな」と思える部分があったりするのだ
(よく見れば参考本として列記されているのかもしれない)

つまりは再読という行為は、その本だけを何度も読むことによって理解が深まるのではなくて
それ以外の本を読むとか、関連した経験をすることによって理解が深まるということだ
それは「背景知識」の量を増やすということに通じるのだろう

背景知識との言葉を耳にしたのはテンミニッツTVだったと思うが
そこではサッカーの外国人監督の通訳は思いのほか難しいことを例を上げて紹介していた
普通の言葉の通訳は問題ないが、その監督の国とか経験者には当たり前になっているエピソードから
共通認識とされている考え方は、言葉通りの通訳では意味をなさないというのだ
日本では「越後のちりめん問屋」という例をあげたとして、外国人に実体は水戸黄門のこと
と説明なしに「越後のちりめん問屋」と通訳しても意味はなさないだろう

目の前にある言葉以外の意味とか知識が多ければ多いもの(あるいはそれらを要求する作品)は
面倒くさいがなかなか面白いということになる

だが最近の世界は、背景知識がなくてもすぐさま理解できるように単純化したり
決めつけられた情報とか考え方が広がっていて、その弊害も感じられると思ってしまう




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