パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

2つの記事(GDPとオリンピック)

2021年04月18日 08時55分31秒 | あれこれ考えること

しばしば彼女は「あの記事読んだ?」と聞く
新聞の読み始めは彼女は後ろから自分は前からで、当然気になる記事も違う
彼女は社会面、地方版やら投書欄を読み込み、自分はトイレで政治経済欄を
さらっと流し読みする(ネットで既に読んでいるので)

彼女は見向きもしないだろう記事に興味深いものがあった
中日新聞の日曜に定期的に掲載される学者やら専門家の意見が述べられる「視座」がそれで
今朝は同志社大学の濱口矩子教授が担当していた
授業の前に当日テーマに関する「湧いてきた疑問」を集めるようにしているらしいが
直近のテーマは「日本のGDP」だった
そこで学生に「湧いてきた疑問」がなかなか興味深かった
「GDPの数値とわれわれの景気実感は無関係なのに、この統計はいったいどういう意味があるか」
「GDPの数値は豊かさの指標か」
「GDPの数値と人間の幸せは関係があるのか」

若い世間を知らない学生がこうした根本的な問を発することはとても良いことだと思う
年を重ねると知らず知らずこうした素朴な疑問は、目の前の現実に追われて無意味な問と
感じてしまうようになるのではないか
だが、社会の矛盾がこれだけ際立ってきた今こそ、こうした根本的な問が継続的になされないと
そして個人個人がそれぞれの答えを出すようにしないと世の中はうまく回らないのではないか
経済学が数式に支配されてばかりでは無味乾燥で、そこに倫理という概念を追加しないと
好ましいものにならないとしたのはノーベル賞を受賞した学者さんだった(アマルティア・セン)

答えのない問いに自らの頭で自分なりの答えを出す
それを誰かと議論の上で戦かわせて、あるときは自分の考えのアップデートを図る
そうしたことの継続が真に身につく考えとなると思うので、この授業を受けることのできる学生は
幸せかもしれない

もう一つ気になる記事があった(これは新聞ではなかったかもしれない)
それは菅首相がアメリカでの記者会見時に、ロイターの記者から
「公衆衛生の専門家から開催の準備ができていないという指摘がある。無責任ではないか」
との質問が出ると、首相は何も答えなかった。という内容の記事だ

違和感を感じてしまうのは、菅さんが答えなかった点ではなくて(それはそれで大変な問題だが)
そのようなことがあったと報道するメディアの姿勢だ
本来ならばこのような記者の問いは、当事者である日本の記者によりされるべきではなかったか
それは全くなされずに、国内では聖火リレーとオリンピック代表戦の情緒的な報道のオンパレードだ
「オリンピックの開催準備不足は無責任ではないのか?」
こうした当たり前の質問が国内では全くできずに
海外からのキッカケを借りてしか間接的に表現するしかない現状は、
結果的にメディアは報道の自由を自ら放棄しているとさえ感じてしまう
それは営利企業としてのメディアの限界かもしれないが、それらの報道で空気が醸成され
大衆は積極的には賛成していなくても沈黙は支持という形で合意形成がなされ(?)
時によると反対意見は異分子のような扱いをされる可能性すらある(と想像してしまう)この国

黙っていること、見て見ぬ振りをすること
自分が行動しなくても代わりの誰かが行動してくれる、、と思いこんでいること
そのように行動してしまうこと怖さをつくづく感じてしまうが、これは杞憂か




公衆衛生の専門家から開催の準備ができていないという指摘がある。無責任ではないか」との質問が出ると、首相は何も答えなかった。「公衆衛生の専門家から開催の準備ができていないという指摘がある。無責任ではないか」との質問が出ると、首相は何も答えなかった。
公衆衛生の専門家から開催の準備ができていないという指摘がある。無責任ではないか」との質問が出ると、首相は何も答えなかった。
公衆衛生の専門家から開催の準備ができていないという指摘がある。無責任ではないか」との質問が出ると、首相は何も答えなかった。
公衆衛生の専門家から開催の準備ができていないという指摘がある。無責任ではないか」との質問が出ると、首相は何も答えなかった。
コメント
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