蔓延防止等重点措置が宣言されて、その後の人出の変化が報道されているが
流石に減ってるとこもあれば、相変わらすのところもある
外出を控えるのはさほど難しいこととは思わないが、何故そんな簡単なことができなのだろうか
だが、できない理由をあげていけばなんとでも言えそうだ
ブレーキを掛けない若者にインタビューをしても、返ってくるのは割合定番化した答えで
巷で言われていることを繰り返しているだけのように思える
(それで正当化ができると思ってるような)
人の行動はなかなか変わらないものだと実感する
人は(日本人は?)頭でわかっていてもいざ行動に移すとなるとどうしても楽な方に流れる
これはオリンピックのアンケートと行動の違いにも見られる
各種世論調査によれば、オリンピックは延期もしくは中止したほうが良いとする数が全体の7割ほどを占めている
ところがその声は大きな声にならない
大きな声はむしろオリンピックを推し進める聖火リレーとか、代表に選ばれる選手の情緒的な物語に偏っている
約7割の人はそれを眺めているだけだ
そうは思っている(反対と思っている)が行動はしない
こうした傾向はあまりにもありふれて、つい当たり前のように思えてしまうが、ちょっと考えると何か変だ
同様に不思議なのは内閣支持率等の結果で、森友学園とか加計学園、桜を見る会の政府の説明に
納得できるかとのアンケートは納得できないとする割合が多いにもかかわらず
支持率はそれを反映することはあまりない
そして「他の内閣よりまし」などと言った、政府を批判的な目で答えた先程の答えとは矛盾する
選択を堂々としている
半ば理性的な判断が実際の行動とか選択とは違うこのような傾向は、世界でもそうなのだろうか
それとも日本特有なものだろうか
感じること、考えることと具体的な行動を起こす間にはかなりの違いがある
スポーツ等の結果がすべての世界では、感じたり考えたところで(練習等の)行動に移さない限り意味はない
ところが一般社会は行動に起こすことは周囲との摩擦を起こしてしまうと考えてしまうようだ
そして若干心配なのは、実は日本人はあまり理性的な判断を好まないのではないか?
と思えてしまうことだ
理性的な判断を行う人にはエリート意識が強すぎると疎まれる
理性的の判断することとエリート意識とは何ら関係がないにも関わらずだ
(オルテガの大衆の反逆ではエリートは別の定義がなされている)
理屈よりも感情的なもの、あるいは周囲の声、空気に左右されるような気がしてならない
そしてその空気を作り出すものは結果的には大きな声で
それは絶対数の多い声ではなくて、大きい声を効果的に伝える手段を持った少数の人々の声なのではないか
なにか心のなかに違和感を感じていても、特に何かをするわけでもない
ただただ情報と時間を消費するだけの存在の大衆(庶民)
本当にそれで良いのか、、、とつい焦り気味に思えてしまう