パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

欧米と違う日本の反応の仕方

2021年04月17日 09時04分12秒 | あれこれ考えること

商品の価格は需要と供給によって決まるとされているが
マルクスの資本論(しっかり読んだことはないが)では
価格の中には労働という行為が反映されているとしている
(ここで搾取という概念が出てくる)

これはどうやらマルクスのオリジナルな考え方ではないらしいが
そう言われてみると考え方としては、なかなか面白い
(最終的な方法論としての行動(革命)は納得できなくても、この考察は理解できる)

自由主義と社会主義の優劣を競う場合、そのどちらも欠点があって
最近では勝ちを収めたと思われていた自由主義も、その矛盾点やら
内在する深刻な問題故に一方的に良しとすることはできないかもしれない
それで自由主義の本家アメリカの若者の間では社会主義にシンパシーを
覚える人が多くなっているようだ(サンダース支持が若者に多いとか)

世界が狭くなっていろんな人種、民族が入り混じり、科学が進んで
従来存在していた仕事が無くなっていくと人は不安になると同時に孤立化する
複雑な現代では「神様のお告げ」のような絶対的に正しいとされるものは
存在感を失い、色んな意味で個人はアトム化する
こうして孤立化した人は民族・人種・血縁などに自らの拠り所をおぼえて
過度にそれに頼るようになる、、、というのが、排外主義の広がる原因とされる

昨日取り上げた「日本は右傾化したのか」の本の中に気になる文があった

近年の欧米における先行研究に比べて、日本におけるナショナリズムの議論の一つの
顕著な特徴は、新自由主義的な主張を行う政治家の支持との結びつきに注目する点にある。
ヨーロッパの研究では、最終的に極右言説が福祉拡大を重視する労働者の支持を志向することが指摘されているが、
日本の場合はむしろ社会福祉の切り下げを行う言説と結びついているというのである

これはいわゆる「自己責任」の一言で片付けられることを反映しているように思える
自助、共助、公助とあるよう、まずは精一杯個人で頑張れ!とするもので
個人の努力でカバーしきれない現実をいわば精神論で補おうとするかのようにさえ見える
ただこれはウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にあるように
現在は頑張った結果の現れ!と考えているのかもしれない

しかし、そうは言っても成功するまで頑張り続けるのはしんどいので
虐げられていると感じている極右の人たちが福祉拡大を求めるのは
それが良いか悪いかは別として考え方の流れとしては理解しやすい

だが日本では、その流れにならない
困った人たちが自分たちの立場を、少なくとも人並みにしてくれと訴える行為は
恥ずべきものとか努力不足!と政治家だけでなく庶民も考えてしまっているようだ

この少し冷たい思考は庶民が自然発生的に身につけた考えか、それともお上の言い分を
いつも聞いていて知らず識らず染まってしまったのかは、一度考える必要はある気がする

残念ながらいろんなことは比較することによってしか違いがわからない
社会的に良いことか悪いことかは、演繹法だけでなく他との比較によってしか実感できない

上に取り上げた日本のナショナリズムの一傾向は、どうも違和感を覚えずにはいられないが
こうした思いは偏屈すぎるのだろうか?

コメント
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