リヒャルト・ワーグナーが愛したニーベルングの指環の英雄ジークフリートは
ワルキューレの最後の場面で、炎につつまれたブリュンヒルデを救うのは
「神たるわしよりも更に自由な者」としてヴォータンに期待される
この場面ではジークフリートのライトモチーフが奏されるので
それが誰のことかわかるようになっている
ワルキューレに続く楽劇「ジークフリート」では、「恐れを知らない若者」として場する
それは、つまりは子どもという存在としてキャラクター化される
見るもの聞くもの触るものがすべて新鮮なジークフリートは全くの自由の中にいる
何も知らないから彼は何にでも挑戦する
それは若者の特権で、不意に世間を変えるとされる「よそ者、わか者、ばか者」を思い出す
ワーグナーは「恐れを知らない者」「自由な者」だけではもの足りず
最後の楽劇「パルジファル」では「同情を知る聖なる愚かな者」という人物を登場させる
彼はジークフリートのように自由で恐れを知らない
だが、あるきっかけで「人の痛み、苦しみ」を知ることになる
そして、自分のなすべきことを自覚し、務めを果たすことになる
「パルジファル」の音楽はゆったりと流れ、刺激的な響きがなく神聖感に満ちてゆったりと流れ
ヴァーチャル・リアリティのように嘘とわかっていても騙されそうな気分になる
音楽を音楽以外の事柄(ストーリー)で語るのは適切では無いかもしれないが
ワーグナーのこの二人の人物のキャラ設定は暗示的で、自分の中に深く刻まれている
何かを変えるというのは、変えることができるというのは
こうした人物によってのみ可能なのかもしれない
神話として語られるこれらの物語、それは世界を写すプロトタイプのようだ
そこで、現在のこの国を想像してみる
そこには「恐れを知らない人」はいるかも知れないが
「同情を知る人」はいないのではないか、、と悲観的に思えてしまう