「人は食べたものからできている」は味の素のキャッチコピーだが
読書シーズンの今、この言葉に一言追加して
「人は食べたものと読んだものからできている」としたものをどこかで見かけた
読んだものは忘れてしまっていることが多いが、それでもこれはそのとおりだと思う
先日読み返した「近代の超克」の中にも、
本を読んで忘れて、また読んで忘れてを繰り返すと蓄積された何かが
性格に通じる影響を与えるようになる、、といったニュアンスの文章があった
ところが残念なことに、自分は本質とは関係ないところが妙に記憶に残っている読み方が多く
最近読み始めた「プロパガンダ」ではこんな文章が強く目に入った
キケロの貢献の一つは、アリストテレスの非技術的検証という概念を発展させてスタシスすなわち、問題の地位の理論を確立したことであろう。弁士や弁護士の仕事は、ある立場に最も有利になるような状況を定義することである。たとえば、来談者が殺人罪で訴えられたとしよう。最初にやるべき弁護は事実の否定である。「いや、彼はそのような罪を犯していない」。それが不可能になったら、行為の定義に挑戦することになる「彼女は確かに彼を殺したが、謀殺とは違う」。それでも駄目なら行為の質に疑問を呈する。「そのとおり、彼を殺した。しかし、それなりの理由があり、情状酌量の余地がある」。万策尽きたら、当該の裁判所にはこの事件を裁判する権利がそもそもないことを主張する。「この法廷には、女王を裁く権限はない」。おそらく読者の方々は、キケロの勧めるやり方と現代の法廷での発言が共通していることに気づくだろう。
裁判といえば「正義の元に、○か✗か」の白黒をつけるものと思われ勝ちだが
少しだけ行政裁判の経験をした者の見方は少し違う
裁判は「戦いの場」だ
弁護士は依頼主のリクエストに答えるべく勝つための方法を考える
その中には論点をそらす、、とかもありそうで
昔読んでうっすら覚えている「弁護士ベイリー」という本でも、
論点をそらすことによって依頼主の勝利(または罰の軽減)に至ったことが書かれていた
こうした例はアメフトだったかプロバスケットだったか忘れたが
黒人選手が妻を殺したことで裁判が起きた時、その裁判の争点は殺人の事実認定ではなく
何か全く別の人種差別の問題にすり替えられて、彼は無罪を勝ち取った(と記憶している)
と言っても、裁判の話が今回のテーマではない
便利な言葉という道具は、実は現実には多様な解釈ができるという困った側面もある
そこで厳密な言葉の定義をしようと試みるが、その定義にしても、想像力たくましい人には
次々に疑問とか、現実社会を考えるとそれで進めていいのかと疑問を思い浮かべる
だが、いつまでもそもそも論に留まっているのは現実的ではないので、ある時点で妥協せざるを得ない
そしてそこには専門性が必要という自体が生じる
この専門性の言葉で、案外自由にできないのが裁判だけでなく議論のように思える
議論が仕事といえば議員さん(国会議員でも市議会議員でも)
この議論が本当に機能しているか、、といえば、最近は少しばかり疑問に思えてならない
議論にはそれを行うための規則があって、その規則に沿って参考人とかを呼ぶのだろうが
その参考人は議論の上で必要であっても、規則の上での賛成者の数のルールを果たさないと実現されない
つまりは議論そのものが勝負ではなく、その前(多数決)の段階で勝負はついてることになる
これは国会の出来事だが地方議会でも、似たようなことはあって
諮問されたことに関する会議は諮問された内容(例えば条例の制定)を
「そもそも必要か?」という立場からは会議の目的とは違うので議論されなくなってしまう
もう少し現実的な話の例では、新市庁舎の建設計画の時、住民を集めて意見交換をする機会が設けられた
そこで住民が「そもそもこんなに大きな建物は要らないのではないか?」と発言すると
「いや、今回の集会は新しい庁舎にどのような機能を入れるべきかを聞くためのものです」
と言われて、それ以上の追求はできなかったという話がある
確かに、情報も知識も少なく、広い視野で考える癖のない一般人が、専門性を有する問題に
的確な参加はできるとは限らないかもしれない
だが、それでもある程度の常識的な視点での何かがないと、専門家だけの世界の
もしかしたら歪なものになってしまいそうな気もする
ということで、例のごとく何が言いたいんだか、、(最近少し苛ついているので)
それにしても、実感として「餅は餅屋」で、弁護士は良いにつけ悪いにつけ戦い方を知っている
自分らのその人は戦い上手な印象だ
だが、本当なら弁護士とは無縁の世界が良いのだろうが