パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「神は細部に宿る」

2010年10月03日 16時48分57秒 | Weblog
昨日、名古屋松坂屋の美術館で「ギッター・コレクション展」を見た
帰ってきた江戸絵画とあり
円山応挙、伊藤若冲、俵屋宗達、酒井抱一の作品が展示されていた

日本のものでありながら、普段あまり目にする事のない
掛け軸に収まった絵画
実はあまり期待せずに気晴らし程度に入館したのだが
これがなかなか刺激的だった

なんと言っていいのか分からないが
この絵画を生業とする人たちの表現意欲、表現技術は
洋の東西を問わず半端じゃない

素人目にも着物の柄の、気の遠くなるような細かな描写
松や笹の葉のリズミカルな執拗な書き込み
それらは書き直しが効かないにもかかわらず
相当なスピードで描かれた印象を与えている

あの細密の表現、飽きる事のない集中
それを彼らは多分しんどいと思ってはやっていないだろう
むしろ夢中になれた至福の時とさえ感じているかもしれない

勿論そこに至るまでは、やはり苦痛を伴う訓練、修行があったに違いない

そう、何か本当の技術を身につけるには徹底的な訓練、修行が必要に違いなく
その修行に耐えられた人たちの中で運のよい人だけが
名を残す事になれたのだろう

気の遠くなる細かな表現、それを絵画上では
人は凄い!と感嘆する
しかし、これを別の分野、例えば音楽、哲学に置き換えてみたらどうだろう

多分、人は向かっている方向が違っているだけで
やりたい事、表現したい事はあまり違わないのではないか
とすると、絵画における細密の書き込みは
バロックにおける対位法の徹底や
古典派におけるソナタ形式の主題の限界までの展開
ロマン派における情感を余す事なく表現する響き、和声などと
本質的には同じものではないのか

哲学においては言葉の徹底的な吟味と分析
そして検証が該当するかもしれない

つまりは、細部にこだわる事は
その道を進むものにとって当たり前の事のようだ
そして、その細部にこそ「分かる人にはわかる!」
といった仕掛けがあるのかもしれない

ところが実生活においては、細部のこだわりイコール難解に通じるようで
物事を全て単純化してしまう
(特にマスを始めとするメディア)
分かりやすい事、万人にも通じる事、それはモノによっては大事な事

しかし、想像力を必要とするものまで説明的になってしまったら
人間の楽しみは、つまらないものになってしまうのではないのか?

神は細部に宿る
作った人も
それを楽しむ人も
細部にこだわらなければ本当に楽しむ事はできない


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